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September 07, 2004

インターネットビジネス興亡史(iNTERNET magazine 2004年9月)

■前夜
 日本におけるインターネットビジネスの発生を、時代を追ってさかのぼっていく。するとそれは、1994年にまで行き着くことができるだろう。一般向けインターネット接続プロバイダ(ISP)の雄として名を馳せたベッコアメ・インターネットが、劇的な低価格サービスを開始した年である。
 当時はインターネットといえば専用線での利用が中心で、利用者の大半は企業や大学などに所属する研究者たちだった。IIJがダイヤルアップ接続を提供していたものの、初期費用が3万円で接続料は1分30円の完全従量制。ほんの少し使っただけでも、瞬く間に料金は数万円に膨れあがり、若者にはとうてい手が出ない値段だった。
 このきわめて狭かった市場に低価格路線をひっさげて乗り込んだのが、東芝出身の技術者だった尾崎憲一氏だった。尾崎氏は当時、若干27歳である。彼は1994年6月、「ベッコアメ」という奇妙な名称で、年額わずか2万円という定額制のインターネットサービスを開始。同年12月には株式会社ベッコアメ・インターネットを設立し、代表取締役社長に就任した。
 ベッコアメは、インターネットに接続してみたいと熱望していた当時のパソコンユーザーたちに英雄視された。ネットワークに未対応だった当時のWindows 3.1にシェアウェアのPPPソフトを組み込み、ベッコアメを使ってインターネットに接続するのが大ブームとなった。当時の日本の一般ユーザーの多くが、ベッコアメを使って初めてWWWや電子メール、FTPなどを扱うことができるようになったのである。それはこれまで経験したことのない、新鮮な体験だった。古いネットユーザーの中には、当時の“ベッコアメ体験”を懐かしく語る人が少なくない。
 そして尾崎社長の率いるベッコアメ・インターネット社にも、日本初の個人向けISP事業はたいへんな成功をもたらした。会員数はうなぎ登りに激増し、莫大なキャッシュが転がり込んだ。尾崎社長はフェラーリを乗り回し、メディアに登場しては「20代で起業してフェラーリを買うのが夢だった」と語り、カリスマ的なベンチャー経営者としてもてはやされるようになったのである。
 インターネット接続ビジネスはその後、低価格を売り物にするISP雨後の竹の子のように発生し、一時は2000を超えるほどまでになった。だがそうした「草の根ISP」の多くはその後淘汰され、業界はOCNやODNなどの通信キャリア系と、So-netや@nifty、Biglobeなどの電機メーカー系の二系列へと収斂していった。薄利多売の儲からない事業と考えられるようになり、ネットビジネスの表舞台からは退場していったのである。ベッコアメ・インターネットも後に尾崎社長が離脱し、そして今年春にはプロバイダ事業そのものが熊谷正寿社長率いるグローバルメディアオンライン(GMO)に売却されている。
 少し時計を巻き戻そう。
 ベッコアメが産声を上げたころ、ほぼ時を同じくしてインターネット先進国のアメリカでは、爆発的なインターネットビジネスブームが起こり始めていた。そして日本にも、さまざまな情報が伝えられるようになっていたのである。「ネットビジネスを立ち上げて大金持ちになった若者がいる」「インターネットは次世代の産業の中心になる」――。
 とはいえ、当時は日本人の多くはネットにはつながってない。パソコン通信はあったが、海外との接続は限定的な形でしか実現していなかった。だからこうした情報は主に、「紙」で伝えられたのである。その代表的存在が、「前川レポート」だった。日本貿易振興会(JETRO)ニューヨークセンターに駐在していた前川徹氏(現在は早稲田大学客員教授)が、現地から送ってきたA4判6~7ページの報告書である。前川レポートが伝えるアメリカのネットビジネスの様相は、多くの人に驚きを持って迎えられたのである。
 そしてまた、iNTERNET magazineの創刊もこの年の10月だった。情報に飢えていた当時のIT業界人たちは、先を争うようにしてこの雑誌を読みふけったのである。
 そうした状況に押されるようにして、1995年前後にはネット起業の“第一波”が巻き起こった。

■上昇
 もっとも早かった動きのひとつは、楽天社長の三木谷浩史氏の起業だったと言えるだろう。。三木谷氏は一橋大学卒業後、日本興業銀行(現みずほ銀行)に入行し、1991年にはアメリカ留学して米ハーバード大大学院で経営学修士(MBA)も取得したエリート興銀マンだった。彼は留学の際、アメリカのビジネスに大きな影響を受けた。1991年というこの時期は、アメリカでもまだインターネットビジネスは出現していない。それどころか1980年代の「失われた10年」と呼ばれた不況が尾を引き、そこから脱出しようと、ジャストインタイム方式などの日本型経営手法を必死で学び取ろうとしていた時代だったのだ。だがこのころの蓄積が、後にアメリカ経済に大繁栄をもたらす礎石となる。そしてそのアメリカの必死な姿が三木谷氏の目に焼き付き、3年後の起業へと結びついていったのである。留学から帰国した三木谷氏は、興銀でメディア関連のM&A(企業の統合・買収)を担当し、ソフトバンクの買収案件や衛星デジタル放送「ディレクTV」とカルチュア・コンビニエンス・クラブ(CCC)の提携交渉などを手がけた。この時期に得た人脈や経験が、起業の原動力になったという。
 そして三木谷氏はベッコアメ設立翌年の1995年秋、興銀を退職して自宅マンションの一室にコンサルタント会社「クリムゾングループ」を設立。そしてこの会社を足がかりに翌96年、楽天を創業するのである。
 1995年はWindows95が発売された年である。このコンシューマ向けOSによって、一般ユーザーは簡単にインターネットに接続することができるようになった。そしてインターネットという存在が社会に認知されるようになり、テレビや新聞、雑誌でインターネット関連のニュースが目に見えて増えていくようになる。この時期、ネットベンチャーは続々と設立された。
 たとえば、インターネットの伝道師と後に呼ばれるようになった伊藤穰一のデジタルガレージ社は1994年に設立され、ウエブ制作ビジネスをスタートさせた。また現在、勝ち組企業とされているグローバルメディアオンラインの前身、インターキューが生まれたのは翌1995年。社長の熊谷氏は1991年にマルチメディア事業を行う目的で株式会社ボイスメディアを設立していたが、普及し始めたインターネットに注目し、1995年にダイヤルQ2を使った低価格ISPビジネスをスタートし、同時に社名をインターキュー株式会社に変更したのである。
 また最近、大阪近鉄バッファローズの買収提案で一躍有名になった堀江貴文氏のオン・ザ・エッヂ(現ライブドア)が創業したのは、1996年だった。堀江氏は東大在学中、アップルコンピュータのパソコン通信運営にアルバイトとして携わったのをきっかけにしてIT業界に足を踏み入れ、このアルバイト先がウエブ制作事業をスタートさせた際には、バイトの身分ながら事業責任者となり、やがて「これなら自分でやった方が儲かるかも」と独立を決意する。そしてバイト仲間たちとともに会社を興したのである。ほかにもたくさんある。孫正義ソフトバンク社長の実弟、孫泰蔵氏の興したインディゴ(1996年設立)、後に光通信と壮絶なバトルを繰り広げることになるクレイフィッシュ(1995年)……。
 この時期に起業されたベンチャーは、現在も“勝ち組”として成功している会社が少なくない。先行者メリットがあったというよりは、優秀な起業家が数多かったということなのだろう。起業ブームの第二波が起きる1998年から1999年にかけて、インターネットビジネスの世界に有象無象の輩がどんどんあふれかえるようになっていったのと比べると、今となってみればその対比はかなり鮮明だ。
 それにしてもこの時期、インターネットビジネスは突然のように勃興してきた。そのパワーの源泉はどこにあったのだろうか。
 日本のインターネットビジネスは若者たちの起業だけでなく、異業種からの参戦組も重要なプレーヤーとして活躍していた。その主力となっていたのは、総合商社である。
 当時、「ニューエコノミー」という言葉が一世を風靡していた。インターネットビジネスの登場とともに、旧来の経済法則は終わりを告げ、産業界は新たな枠組みに突入していくという考え方である。その理論の主要なキーワードのひとつとして、「中抜き」という言葉があった。中抜きというのは、メーカーが直接インターネットを通じて消費者などに商品を販売することで、仲介業者が不要になっていくという意味だ。この理論にたいへんな危機感を抱いたのが、総合商社だった。商社のビジネスというのは売り手と買い手を結びつける、いわば「中」の役割を持っている。。中抜きされたのでは、自分たちの居場所がなくなってしまうと考えたのである。
 そこで商社は、2つの戦略を考えた。ひとつはインターネット上に電子調達のeマーケットプレイスを作り、商社の存在価値を維持しようというもの。そしてもうひとつは、これまで商社が扱ってこなかったオンラインショッピングなどBtoCのネットビジネスに進出することで、この危機を何とか乗り切ろうという考え方だった。
 そんな中で総合商社各社は相次いでネットビジネスに参戦。そして同時に、若者たちが起業したネットベンチャーに対し、積極的な投資も行うようになったのである。総合商社はこの時期、日本のネットビジネスに対するインキュベーターの役割も果たしていたと言っていいだろう。
 総合商社以外に、マルチメディア関連やソフト開発の中小企業がネットビジネスに業態変換したケースも多かった。
 富士通総研はネットバブル末期の2000年夏、ビットバレー・アソシエーションと共同で東京23区のネット企業の動向調査を行っている。その調査結果を見ると、ネット企業の創業年はサンフランシスコやニューヨークよりも東京の方が古く、しかも従業員もサンフランシスコが平均28人、ニューヨークが平均13人だったのに対し、東京は平均78人にも上っていた。これは米国内ではスタートアップベンチャーが大半を占めているのに対し、東京ではネット企業の多くが異業種からの参戦だったことを示している。

■沸騰
 1998年ごろまでは、インターネットビジネスは順調に成長を続けていたといっていいだろう。それが突如としてバブル化しはじめたのは、1999年のことである。
 引き金は、ひとつしかない。ナスダックジャパン(現ヘラクレス)と東証マザーズという新興株式市場が相次いで設立されたことだ。
 国内では長くベンチャー投資の体制が整備されておらず、これが若者たちの起業を阻んでいると指摘されてきた。
 アメリカではベンチャー企業育成が、古くから産業界の中にある種の文化として根付いている。引退した会社経営者が、現役時代に蓄積した莫大な資金を元手に投資ビジネスを始め、すぐれた技術やビジネスモデルを持った人々が興した会社に個人として出資する。こうした「エンジェル」と呼ばれる個人投資家が数多く存在するのに加え、機関投資家が積極的にベンチャー企業に投資し、その企業の新規株式公開(IPO)によってキャピタルゲインを得るというビジネス自体も広く行われている。
 ところが日本では、ベンチャー企業がIPOの行える株式マーケットは存在していなかった。既存の株式市場には、きわめて厳しい上場基準が設けられている。たとえば東証一部は「純資産10億円以上」「最近3年間の利益の総額が6億円以上」など、若いベンチャーにはとうてい実現できなさそうなハードルが設定されている。となると、仮にVCがベンチャー企業に出資しようと考えても、IPOからリターンを得ることはできない。このため1970年代~80年代に設立されたベンチャーキャピタル(VC)は、しかたなく融資を行って利子を得るというノンバンク的なビジネスに手を出さざるを得なかった。つまりは直接金融ではなく、間接金融に走ったのである。これでは銀行の融資と何ら変わりはない。起業家は自宅などの財産を担保にして事業資金を借り入れざるを得なかった。もし一度失敗すれば全財産を失い、二度とビジネスには戻ってこられない。そんな状況の中では、起業に挑戦しようとする人も少なくて当然だったのだ。
 そしてこうした悪循環の状況に風穴を開けようと、ソフトバンクの孫社長が音頭を取って1999年6月、米ナスダックの日本版である「ナスダック・ジャパン」が設立された。そしてこれに刺激された東京証券取引所も同年12月、ベンチャー向けの新市場「トウショウマザーズ」を開設する。そしてこの2つのマーケットの創設によってインターネットビジネスブームは一気に過熱し、バブル状態へと突入してしまったのである。
 上場基準もまだ明確になっていない中で、リキッドオーディオジャパンやクレイフィッシュなどの若いネット企業が次々と上場し、そして公募価格の数倍もの初値をつけた。「戦後最大」と言われた不況の中で、ネット企業への期待が高まっていたこともある。その期待が過熱し、そして沸騰し、投資家たちは争ってネット関連株へと走ったのである。VCは次々とネット企業への投資を行うようになり、莫大なカネがネット業界へと流れ込んでいった。黒字転換どころかほとんど売上も上がっておらず、将来の展望もはっきりしないような若い企業が青山や六本木にオフィスを構え、高給で若者たちを呼び寄せた。カネの亡者が群がり、そしてカネのにおいをかぎつけて、裏社会の連中たちもやってくる。そこには1980年代末のバブル経済期と、まったく同じ構造が出現してしまったのである。
 この時期に起業したネット企業の多くは、黒字化が果たせないでいた。それにも関わらずVCから莫大なカネが投資され続け、新興市場でも株価が高騰したのは、インターネットビジネスに対する「幻想」とも言える奇妙な論理が蔓延していたからである。つまり、最初に最大のシェアを奪った企業だけが生き残ることができると考えられていたのである。このニューエコノミー理論は、カリフォルニア大バークレー校の教授らが書いた書籍「ネットワーク経済の法則」(1999年6月に日本語訳刊)によって一躍有名になり、瞬く間にネット業界の常識となった。トップ企業が市場を奪取した途端、2番手以下の企業はシェアをどんどん落としていくことになり、設備などそれまでの投資がすべて無駄になるとされ、ネット業界は先を争って「無料」「激安」で市場シェアを増やすことに狂奔した。だが考えてみれば、この考え方がすぐに行き詰まってしまうのは明らかだった。あらゆる企業がすべて無料でサービスを提供すれば、1社がシェアを奪うことはできない。逆に消耗戦に陥ってしまい、いつまで経っても売り上げがあがらないという不毛なスパイラルに入り込んでしまう。そして実際、そうした状況に陥る企業は続出した。
 実際、当時の帝国データバンクの統計によれば、調査対象となった都内のネットベンチャー80社の資本金の平均額は6億2040万円で、一般の中小・零細企業よりもはるかに大きかった。しかし年商は平均約5億円と資本金よりも低く、資本増強が売上高の伸びに結びついていなかったことが証明されている。かなりいびつな財務構造だったのである。
 しかしVCからカネが流れ込んでいる間は、少なくとも破たんは表面化しなかったのである。

■崩壊
 ネットバブル崩壊のきっかけは、光通信だった。携帯電話販売を主力業務としていた同社が巨額の赤字を隠して決算発表を行っていたことが明るみに出て、株価が一気に暴落したのである。2000年3月末のことだった。
 これを引き金にして、東証マザーズやナスダックジャパンに上場していたネット企業株も連日ストップ安を続けるようになり、ついにネットバブルははじけ飛ぶのである。たとえばネット企業の象徴的存在だったソフトバンクの保有株含み益は、2000年初頭には5兆円もあったのが、同年秋には4000億円にまで減少してしまっている。時価総額もピーク時の21兆7000億円から5000億円にまで下落しており、巨大なカネが雲散霧消してしまったのだ。他のネットベンチャーも同様だった。
 そして80年代のバブル経済崩壊時、さまざまな経済事件が多発したのと同じように、ネットバブルの崩壊もいくつかの事件を引き起こした。その代表的なケースは、音楽配信のリキッドオーディオジャパンだった。東証マザーズ上場銘柄第一号だった同社は、設立当初から裏社会との関係が取りざたされていたが、2000年10月になって社長(32歳)が逮捕監禁容疑で警視庁に逮捕されてしまったのである。社内抗争で他の取締役を追放しようと、暴行した上で監禁したという容疑だった。
 この事件をきっかけに、ビットバレーやネット企業のイメージは地に墜ちた。「アメリカのベンチャーは技術志向だが、日本のビットバレーには技術力はなかった」「カネの亡者が寄ってたかってインターネットに群がった」と散々な言われようだった。投資家たちも熱が冷めたように資金を市場から引き揚げ、業界は失速していくのである。さらに翌年2001年には、光ファイバー需要のミスマッチを原因とした世界的な通信不況が始まり、日本ではこれにNTTの大リストラと電話交換機網の更新停止というショックが重なり、IT不況と呼ばれる時代へと突入していく。ネット業界もこの不況に引きずり込まれるようにして、暗い日々を送ることになった。

■再編
 だがこの苦しい時期は、新たな幕開けを迎えるための試練の時代でもあった。一部のネット企業は破たんし、消滅していったけれども、ビットバレーなどで育った多くのベンチャーは徐々に地力を蓄えていった。そしてその中から、楽天やライブドア、サイバーエージェント、GMOなど現在「勝ち組」と呼ばれているような急成長組ものし上がってきたのである。
 これらの企業がネットバブル崩壊後のこの時期になり、急激に伸びた背景には、ブロードバンドの普及があった。ブロードバンドによって多くの人々がネットを日用品のように自由自在に使うようになり、ショッピングモールやポータルサイト、ネット広告などの市場を一気に押し広げたのだ。
 逆に言えば、ネットバブルのころはそうした通信インフラさえ整っていなかった。そもそもネットベンチャー起業ブームが最盛期だった1999年ごろは、ダイアルアップ接続の加入件数がようやく全世帯の半数近くに達した時期で、大半は「必要な時にだけ接続し、使い終わったらすぐに切る」という利用形態だったのだ。ネットビジネスの土台がまだできあがっていなかったのである。
 ソフトバンクの低価格ADSLサービス「Yahoo!BB」を起爆剤にして、ブロードバンドが急激に普及を始めるのは2002年である。IT不況の中を堪え忍んできた各ネット企業は、これをきっかけに息を吹き返し始める。そして同時に、業界再編が起き始める。より大きなマーケットを求め、シナジー効果を期待してさまざまなネットベンチャーたちが合従連衡を繰り返すようになるのだ。その再編劇の核となったのは、「勝ち組」と呼ばれる企業群だった。たとえば楽天は、検索ポータルのインフォシークやライコス、宿泊予約サイト「旅の窓口」、ネット専業のDLJディレクトSFJ証券などを次々と傘下におさめた。金融からポータルまでそろえ、「インターネット財閥」と呼べるほどの規模になりつつある。
 また堀江社長のオン・ザ・エッヂ(現ライブドア)も同様で、アスキーECや無料ISPの旧ライブドア、バガボンド(現ネットアンドセキュリティ総研)などを次々に買収した。たとえば旧ライブドアをめぐるエピソードは有名だ。約70億円の資金が投下された同社は約150万人もの会員を集めていたのにも関わらず、赤字体質から抜け出すことができず、苦境にあえいでいた。オン・ザ・エッヂはこの会社を2002年に約2億円という破格の値段で買収。民事再生法のスキームを徹底的に利用し、社員をいったん解雇したうえで再雇用し、高い値段で契約していた通信インフラをすべて安価な回線に切り替えるなど大ナタを振るって、コストをわずか10分の1に減らした。売上高が8000万円と横ばい状態だったのは買収前と同じだったが、1億5000万円もの経常赤字を脱却し、なんと翌月には単月黒字化してしまったのである。
 オン・ザ・エッヂは2004年春には買収相手の名前に社名変更し、2000年の東証マザーズ上場当時には30人ほどしかいなかった従業員数は、現在は1000人以上へと膨れあがっている。総合企業にふさわしい陣容になりつつある。
 今後はこうした再編劇が、さらに進むと見られている。
 ネット業界は、100年前の自動車産業に比べられることが多い。自動車製造・販売というまったく新しいビジネスが立ち上がった二十世紀初頭、アメリカでは200社近い自動車メーカーが乱立した。
 「成長分野での成功を目指してメーカーは乱立したが、その陰では撤退も相次いだ。1925年にウォルター・クライスラーの手によってクライスラーが設立されるまで米国だけで181社のメーカーが乱立していたが、30年代の世界恐慌を経て第2次世界大戦前にはGM、フォード、クライスラーの米ビッグスリー体制が確立した」(「自動車 合従連衡の世界」佐藤正明著・文春新書)
 これと同じことが100年後の今、インターネットビジネスの世界で起きようとしているのではないだろうか。

ビットバレーとは

 ビットバレーが登場したのは、ネットバブルの最盛期だった。渋谷の松濤にオフィスを構えていたネットエイジ代表の西川潔氏が、同じく渋谷・桜丘にあったネットイヤーグループ代表の小池聡氏の草案をもとに、「Bitter Valley構想」を宣言。1999年3月のことだった。
 「時は世紀末、100年に一度の大社会変革期の真っ最中。そして、その重要な主役がインターネットであることに気づいた若いベンチャー企業が東京・渋谷付近に続々と集積している。おそらくその土地の風が未来有為の若者を惹きつけるのであろう。渋・谷=Bitter Valley、そう、アメリカにSilicon Valleyがあるなら、日本にはBitter Valley がある」
 ゴロの良さからBitter ValleyはBit Balleyに改名され、活動支援団体のビットバレーアソシエーション(BVA)が設立された。そして月に1度、ビットスタイルという名前の交流パーティーが開かれるようになったのである。当初は真面目な集まりだったのが、月を追うごとに肥大し、ついには数千人が集まる騒ぎとなった。
 ビットバレーの名前も流行語となり、ファッション雑誌や若者向け男性雑誌で「ビットバレーのライフスタイル」「ネットビジネス成功者の生活はこうだ!」などという特集が組まれるまでになった。渋谷の外れ、富ヶ谷や代々木上原周辺に洒落たオフィスを構え、Tシャツに短パンでマウンテンバイクにまたがって軽やかに通勤する――というスタイルがカッコいいともてはやされたのである。
 ビットバレーの最高潮となったのは2000年1月、六本木のヴェルファーレで開かれたビットスタイルだった。約2000人の参加者でぎっしりとなった会場には、好奇心でやってきた若い女性、その女性をナンパする目的で来た男たち、見るからに怪しい業界人などありとあらゆる人物が集まった。もっとも盛り上がったのは、孫正義ソフトバンク社長が演台に登場した時だった。
 「今日はビットバレーの交流会のビットスタイルに出させてほしかった。ところが、スイスの公演先からの定期便には間に合わない。そこで、3000万円かけて飛行機をチャーターして駆けつけました!」
 孫社長がそう叫ぶと、会場は「ウォーッ」というどよめきに包まれ、大きな拍手が沸いたのである。
 だがあまりにも肥大し、暴走したビットバレーに対しては、運営母体のBVAみずからが収拾できなくなってしまい、ビットスタイルもこのヴェルファーレの回を最後に中止された。その後BVAは富士通総研との調査研究などまじめな活動を続けていたが、現在は休止状態となっている。
 このビットバレー最盛期、業界内で盛んに読まれた「ビットバレーの鼓動」という書籍があった。2000年3月に出版されたこの本は、当時の熱狂ぶりを無批判に描いており、今読むとかなり恥ずかしい気持ちになる。ちなみにIT系出版社の役員を務めていた同書の著者がその後、児童買春で逮捕されて会社をクビになったのは、何かのブラックジョークとしか思えない事件だった。
 その書籍も、今は絶版となっていて手に入らない。そしてビットスタイルという名称も消え、今では人気キャバクラの名前としての方が有名になってしまった。時代は移り変わっている。

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