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September 07, 2004

あるベンチャーがテレビ業界に潰された――録画ネット事件(iNTERNET magazine 2004年9月)

 小さなベンチャー企業が起こした「録画ネット」という海外在住者向けのテレビ鑑賞サービスが、放送業界に思わぬ波乱を巻き起こした。「放送」という巨大な著作権の枠組みをあくまで守ろうとするテレビ局と、インターネットの新たな著作権の枠組みを作り出そうとするネットベンチャー。その見えざる戦いは、関係者が注目を寄せる民事裁判にまで発展した。

 「録画ネット」という海外在住者向けのテレビ鑑賞サービスが開始されたのは、昨年9月のことである。立ち上げたのは、千葉県松戸市に本社のある有限会社エフエービジョン(黒澤靖章社長)という社員3人のベンチャー企業である。
 録画ネットの仕組みはこうだ。
 サービス加入者はまず、テレビチューナとキャプチャカードを搭載したパソコンをエフエービジョンから購入する。一般に「テレビパソコン」と呼ばれている市販の製品である。加入者は自分の購入したテレビパソコンをエフエービジョンに預け、同社はこれを松戸市の自社施設に保管する。パソコンは地上波を受信し、NHKや民放の番組をHDDに録画する。
 海外在住の加入者は、手元のパソコンからインターネットを経由してこのテレビパソコンにアクセスし、iEPG(電子番組ガイド)を使って番組の予約や受信、録画を行うことができる。そして録画したテレビ番組を実際に視聴する場合はインターネット経由で手元のパソコンで受信する。
 こうしたセッティングのほとんどはエフエービジョン側で行ってくれるため、加入者は受信用のパソコンを用意するだけでいい。日本にいるのとほとんど同じ条件で、日本の地上波テレビ番組を視聴することができるわけだ。
 国内のテレビ番組をエンコードしてサーバーに収め、国外の日本人にインターネット経由で放送する――一見素晴らしそうなビジネスだが、ごく素直にこうした商売を始めてしまうと、著作権法の公衆送信権に抵触する。実際、過去に警察に摘発されたケースも少なくない。たとえば今年1月には、NHKの大河ドラマや民放のバラエティー番組をサーバーに保存して、ウエブサイトを通じて月額35ドル(約4200円)で会員向けに配信していた愛媛県松山市の業者が警察に摘発されている。
 だが、録画ネットは別のアプローチを取った。
 ――市販されているテレビの約8割がテレビ放送の受信・録画機能を備えるようになっている。また現在パソコンに標準搭載されているWindows XPにはリモートデスクトップ機能があり、遠隔地からパソコンを簡単に操作できる。以上の2つの機能を組み合わせれば、日本国内に置かれているパソコンに放送番組を録画させ、それを海外から視聴することは簡単に実現できる。実際、そのような方法で日本の実家にパソコンを設置して、海外からテレビ番組を入手している日本人のパワーユーザーは少なくない。実際、たとえばソニーの発売しているモニタ・受像器分離型のテレビ「エアボード LF-X1」には、自宅にベースステーション(受像器)を置いたままモニターだけを持ち出し、インターネット経由で自宅のベースステーションから録画したテレビ番組を受け取る機能が装備されている。
 しかし一方でこうした方法は、国内に設置したパソコンがフリーズしてしまった場合などに再起動・復旧させなければならないこともある。だったら、このパソコンを「お預かり」するサービスを行うことで、保守管理などによるサポートも行うことができるのではないか――。
 そこで同社は、①テレビパソコンの販売②パソコン所有者からの依頼による設置とセッティングの代行③パソコンのハウジングサービス――という組み合わせからなるビジネスモデルを考えた。地上波放送を受信するテレビパソコンの所有者は加入者であり、電波を受信している主体はあくまで加入者である。エフエービジョン側は、そうした加入者の所有するパソコンをあくまで保管しているだけにすぎない。
 エフエービジョン顧問の春日秀文弁護士は、「同社の行っているのはあくまでパソコンを預かるハウジングサービスであって、パソコン所有者がパソコンをリモートで使う際のサポートを行っているのみと言える。所有者がインターネット経由で遠隔地から、自分のパソコンを使ってテレビ番組を録画して視聴することは、著作権法で認められている『私的使用のための複製』の範囲内」と話す。
 また同社取締役の原田昌信氏は言う。
 「海外居住者にとって日本語のテレビは日本との接点を保つための貴重な存在になっている。もっと簡単に日本のテレビが見られる方法はないか、それを何とかわれわれがお手伝いできないかと考えたのがきっかけだった」
 録画ネットでは、番組の視聴が私的使用の範囲を超えないような仕組みも作られている。そのひとつは、認証管理の方法だ。加入者は録画ネットのポータルサイトでID、パスワードを使った認証を通った後に自分のテレビパソコンにリモートアクセスできるようになるが、同じIDで別の人が認証しようとすると、先にログインしていた人はセッションが切れ、操作もデータ転送もできなくなるようになっている。
 原田氏が続ける。「これによって、ひとつのIDを複数人でシェアするような不正使用を防げる。日本のテレビ局には最大限の敬意を払いたいし、彼らに損害を与えるつもりは毛頭ない。放送局の利益を犯さない方法で、私的使用の範囲内におさまりながら、なおかつ海外居住者が簡単にテレビを見られる方法を考えた。誰にも迷惑はかけていないはずだ」
 このIDパスワード認証については、さらに録画ネットサーバの認証を受けた後は、リダイレクトして加入者とテレビパソコンの間に直接セッションを確立。サーバ側はデータの送受信や制御などにいっさい介入しない仕組みになっており、録画ネットが加入者のリモート制御に関与しない仕組みを取っている。これも録画ネットがあくまで「ハウジングサービスの枠内」であるというルールを崩さないためだという。
 エフエービジョンはこのようにしてジネスモデルを考え抜き、そして昨年9月にサービスを開始した。最初に必要なテレビパソコン購入費が500~700ドル前後、月額メンテナンス料が49ドル95セントとなっている。そして録画ネットには現在、約250人の会員が集まっている。
 エフエービジョンはサービス開始と同時に、NHKに対して受信料の支払いを申し込んだ。満を持しての意思表明、ということだったのだろう。春日弁護士も「こちらから率先して支払うことにして、褒められるのではないかと思った」というのである。
 ところが連絡を受けたNHKの側にとっては、「また現れたか」という受け止め方だった。先に紹介した愛媛県の松山市のケースは、実は昨年10月、NHKと民放4社が共同して警察に告訴状を提出し、その結果摘発にまで持ち込まれた事件だったのである。他にも数社が同様の「ネット放送サービス」が出現していたため、NHKと民法各社は連絡会議を設置。各社の法務担当者は対応に追われているところだったのである。
 NHKの社内弁護士である総務局法務部の梅田康宏弁護士が説明する。「番組をサーバーに保存して海外向けに流すというサービスは昨年、雨後の竹の子のように登場した。背景には、ブロードバンドの普及がある。アメリカは日本よりも若干遅れて昨年ごろにブロードバンドの普及が始まり、これが米国内で日本の番組を受信するというサービスを可能にする土台になったのではないか」
 とはいえ、録画ネットが「ハウジングサービス」という他の業者とは違ったビジネスモデルを持っているのは明らかであり、予断だけで判断するわけにはいかない。そこで松戸市のハウジング施設の見学を、エフエービジョン側に申し入れたのである。
 「見学する以前に、NHKでは情報システム専門家が録画ネットの仕組みを分析し、法律の専門家とともに『著作権侵害の可能性が高い』と判断していた。実際に見学に行ってみて、やはり侵害であることは明白だということがわかった」(梅田弁護士)
 そして梅田弁護士はその場で、「このサービスは違法の可能性が高い。率直に言わせていただければ、サービス停止の方向で検討していただきたいのですが」とエフエービジョン側に申し入れた。この見学には春日弁護士も同席しており、梅田弁護士に対して、「われわれの見解はまったく異なってます。サービスを止める必要はないと考えている」と反論。この場は物別れに終わったのである。
 この後、複数回に渡って両弁護士の間で会談が持たれたが、いずれも決裂。NHK側は6月、サービス停止を求める内容証明郵便をエフエービジョン側に送付した。そして7月30日、民放キー局5社とともに録画ネットのサービス停止の仮処分を求める申し立てを東京地裁に起こしたのである。
 梅田弁護士が「録画ネットは著作権侵害」と判断した根拠は、何だったのだろうか。
 エフエービジョンの主張は、複製の主体は加入者側にあり、録画ネット側はそれをサポートしているに過ぎないというものだ。要するに争点は、「いったい誰が番組をコピーしているのか」ということだろう。
 梅田弁護士は、次のように指摘する。
 「古い事例では、たとえばレンタルビデオ店でのケース。店側がビデオデッキを設置し、そのデッキを客が操作してレンタルビデオを客がコピーできるようなサービスを提供していた店が、複製行為を行っていたと認定された判例がある。またカラオケボックスで歌を歌うのは客の行為だが、東京高裁で『歌っている行為はカラオケボックスの演奏行為である』と認定する判断が出されている」
 つまり複製の主体が仮に利用者であったとしても、サービス提供側が機器や著作物などを用意している場合は、複製の主体はそうしたサービス提供企業だという判断が示されているのである。「判例のこれまでの趨勢は、単に自然的に観察したら客が複製しているように見えるからというのではなく、機器の設置や著作物を用意しているのが誰かなどをか総合的に判断している。それらに照らし合わせれば、今回の件でも複製の主体は録画ネット側であるのは明らか」(梅田弁護士)。
 だがビデオレンタル店やカラオケ店では、ビデオデッキやカラオケ機は店側の所有となっている。だが録画ネットは、テレビパソコンの所有者は加入者である。この「所有権」をどう見るかが、裁判の最大の争点となった。
 春日弁護士の主張。「録画ネットはパソコンを1台ずつ加入者に販売し、パソコンには所有者の名前とメールアドレスを貼付して保管している。さらに所有者が求めた場合はパソコンを返却しており、録画ネットはパソコン所有者の適法行為をサポートしているのに過ぎない。もしこれを違法だとするのであれば、テレビパソコンの設置サービス自体が違法となり、パソコン販売店や電気店がパソコンやDVDレコーダーを買い主の自宅に配達して設置する行為も違法になってしまうのではないか」。
 一方、梅田弁護士はこう言う。「パソコンの所有権が移転しているかどうかは、重要な問題ではない。所有者とは言ってもそのパソコンに触れたこともないわけで、実質的にはレンタルとは違わない。レンタルとの違いを協調するために言葉を言い換えているだけで、最初にかかる『パソコン購入費』も高めの入会金と考えることができるのではないか」
 裁判所の決定は、10月7日に出た。録画ネット側の敗訴だった。
 裁判所は「テレビパソコンの所有権は確かに各利用者に帰属しているが、設置場所がエフエービジョンの事務所に限られており、各種データを記録して保守・管理を行うなどして、同社はこれを管理・支配下に置いている」と断じ、同社が録画の「主体」になっていると認定したのである。
 事件は、これで一応の決着を見た。だが実は今回の事件には、表には出てきていないもうひとつの問題が隠されている。
 それはオリンピックの放映権の問題だ。
 五輪放映権は、各国の放送局や政府が国際オリンピック委員会(IOC)から得る仕組みになっている。たとえば日本ではNHKと民放連が連携してジャパンコンソーシアム(JC)という団体を作っており、たとえばアテネ五輪では約180億円でJCがIOCから放映権を獲得したとされている。放映権料は毎年のように高騰を続けており、1964年の東京五輪の際には世界各国分を会わせても90万ドル(当時のレートで約3240万円)だったのが、アテネでは総計15億ドル(約1650億円)にまで達している。五輪の人気と、その人気に依ったIOCの圧倒的権力が生み出した数字といえるだろう。
 そしてこの放映権が及ぶ範囲は、国内に限られている。JCが獲得した放映権は、日本国外では無効なのである。これを逸脱するとIOCからはたいへんなペナルティが課されかねないし、その国の放映権を持っている放送局連合や政府などからも賠償請求を起こされる可能性もある。実際、アテネ五輪でも中国の国営テレビCCTVがソフトボールや柔道などの試合を日本国内向けのCS放送で流してしまい、JCから抗議を受けている。
 NHKが危惧しているのは、録画ネットのようなサービスが普及することによって、この放映権の枠組みが崩れてしまいかねないことだった。たとえばフィリピンでは前回のシドニー五輪の放映権約120万ドルが払いきれず、危うくアテネ五輪の放映権を得られなくなりかけた。高騰する一方の放映権を払えず、五輪中継が途絶える国が今後は現れる国が予想される。もしそうした国に向けて、録画ネット的なサービスを使って日本の五輪中継を送出したら――。
 「現在エフエービジョンが提供しているサービスは小規模で、影響は少ないかもしれない。だがこうしたサービスがなし崩し的に増え、適法だと認められるようになると、大手の企業が同じようなサービスを大規模にスタートさせる可能性もある。もしそうなれば、放映権の枠組みが崩れてしまいかねない。そうなってしまう前に、このビジネスは間違っているということをきちんと知らしめておかなければならないと考えている」(梅田弁護士)
 もし録画ネットのようなサービスが広まってしまうと、これまで放送業界が築いてきたルールが根底から覆ってしまう可能性があるというのである。実際、今回の事件はテレビ業界に関わるさまざまな著作権ホルダーや著作権団体からも注目を集めており、NHKなどには問い合わせが相次いでいるというのだ。
 NHKの危惧は、裁判所の決定でとりあえずは回避されたということになるのだろう。だがエフエービジョンの原田氏は「自社施設に保管するのが許されないのであれば、加入者の日本の実家にテレビパソコンを設置するサービスを今後は検討していく」と話しており、サービスそのものは続行する方針を明らかにしている。事件はまだ終わっていない。そして録画ネットは、あくまで氷山の一角かもしれないのである。
 インターネットの登場によって、既存の枠組みではとらえきれないさまざまな事象が出現し、氾濫する水が堤防からあふれ出すようにさまざまな枠組みが壊れていこうとしている。録画ネットの問題は、インターネットによって国境の壁が消滅していくグローバリゼーションのひとつのケーススタディともいえるかもしれない。ある放送局関係者は、こう詠嘆するのだ。
 「放送業界は現在の枠組みを何とか維持しようと必死になっているが、インターネット業界はなし崩しに枠組みを取り払っていこうとしている。そんな戦いがここ数年、ずっと続いている」
 録画ネットをつぶせば、本当に放送業界の権益は守られるのか。すべてを飲み込もうとするインターネットの大波の中で、放送業界の戦いはいつまで続くのだろうか。

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インターネットビジネス興亡史(iNTERNET magazine 2004年9月)

■前夜
 日本におけるインターネットビジネスの発生を、時代を追ってさかのぼっていく。するとそれは、1994年にまで行き着くことができるだろう。一般向けインターネット接続プロバイダ(ISP)の雄として名を馳せたベッコアメ・インターネットが、劇的な低価格サービスを開始した年である。
 当時はインターネットといえば専用線での利用が中心で、利用者の大半は企業や大学などに所属する研究者たちだった。IIJがダイヤルアップ接続を提供していたものの、初期費用が3万円で接続料は1分30円の完全従量制。ほんの少し使っただけでも、瞬く間に料金は数万円に膨れあがり、若者にはとうてい手が出ない値段だった。
 このきわめて狭かった市場に低価格路線をひっさげて乗り込んだのが、東芝出身の技術者だった尾崎憲一氏だった。尾崎氏は当時、若干27歳である。彼は1994年6月、「ベッコアメ」という奇妙な名称で、年額わずか2万円という定額制のインターネットサービスを開始。同年12月には株式会社ベッコアメ・インターネットを設立し、代表取締役社長に就任した。
 ベッコアメは、インターネットに接続してみたいと熱望していた当時のパソコンユーザーたちに英雄視された。ネットワークに未対応だった当時のWindows 3.1にシェアウェアのPPPソフトを組み込み、ベッコアメを使ってインターネットに接続するのが大ブームとなった。当時の日本の一般ユーザーの多くが、ベッコアメを使って初めてWWWや電子メール、FTPなどを扱うことができるようになったのである。それはこれまで経験したことのない、新鮮な体験だった。古いネットユーザーの中には、当時の“ベッコアメ体験”を懐かしく語る人が少なくない。
 そして尾崎社長の率いるベッコアメ・インターネット社にも、日本初の個人向けISP事業はたいへんな成功をもたらした。会員数はうなぎ登りに激増し、莫大なキャッシュが転がり込んだ。尾崎社長はフェラーリを乗り回し、メディアに登場しては「20代で起業してフェラーリを買うのが夢だった」と語り、カリスマ的なベンチャー経営者としてもてはやされるようになったのである。
 インターネット接続ビジネスはその後、低価格を売り物にするISP雨後の竹の子のように発生し、一時は2000を超えるほどまでになった。だがそうした「草の根ISP」の多くはその後淘汰され、業界はOCNやODNなどの通信キャリア系と、So-netや@nifty、Biglobeなどの電機メーカー系の二系列へと収斂していった。薄利多売の儲からない事業と考えられるようになり、ネットビジネスの表舞台からは退場していったのである。ベッコアメ・インターネットも後に尾崎社長が離脱し、そして今年春にはプロバイダ事業そのものが熊谷正寿社長率いるグローバルメディアオンライン(GMO)に売却されている。
 少し時計を巻き戻そう。
 ベッコアメが産声を上げたころ、ほぼ時を同じくしてインターネット先進国のアメリカでは、爆発的なインターネットビジネスブームが起こり始めていた。そして日本にも、さまざまな情報が伝えられるようになっていたのである。「ネットビジネスを立ち上げて大金持ちになった若者がいる」「インターネットは次世代の産業の中心になる」――。
 とはいえ、当時は日本人の多くはネットにはつながってない。パソコン通信はあったが、海外との接続は限定的な形でしか実現していなかった。だからこうした情報は主に、「紙」で伝えられたのである。その代表的存在が、「前川レポート」だった。日本貿易振興会(JETRO)ニューヨークセンターに駐在していた前川徹氏(現在は早稲田大学客員教授)が、現地から送ってきたA4判6~7ページの報告書である。前川レポートが伝えるアメリカのネットビジネスの様相は、多くの人に驚きを持って迎えられたのである。
 そしてまた、iNTERNET magazineの創刊もこの年の10月だった。情報に飢えていた当時のIT業界人たちは、先を争うようにしてこの雑誌を読みふけったのである。
 そうした状況に押されるようにして、1995年前後にはネット起業の“第一波”が巻き起こった。

■上昇
 もっとも早かった動きのひとつは、楽天社長の三木谷浩史氏の起業だったと言えるだろう。。三木谷氏は一橋大学卒業後、日本興業銀行(現みずほ銀行)に入行し、1991年にはアメリカ留学して米ハーバード大大学院で経営学修士(MBA)も取得したエリート興銀マンだった。彼は留学の際、アメリカのビジネスに大きな影響を受けた。1991年というこの時期は、アメリカでもまだインターネットビジネスは出現していない。それどころか1980年代の「失われた10年」と呼ばれた不況が尾を引き、そこから脱出しようと、ジャストインタイム方式などの日本型経営手法を必死で学び取ろうとしていた時代だったのだ。だがこのころの蓄積が、後にアメリカ経済に大繁栄をもたらす礎石となる。そしてそのアメリカの必死な姿が三木谷氏の目に焼き付き、3年後の起業へと結びついていったのである。留学から帰国した三木谷氏は、興銀でメディア関連のM&A(企業の統合・買収)を担当し、ソフトバンクの買収案件や衛星デジタル放送「ディレクTV」とカルチュア・コンビニエンス・クラブ(CCC)の提携交渉などを手がけた。この時期に得た人脈や経験が、起業の原動力になったという。
 そして三木谷氏はベッコアメ設立翌年の1995年秋、興銀を退職して自宅マンションの一室にコンサルタント会社「クリムゾングループ」を設立。そしてこの会社を足がかりに翌96年、楽天を創業するのである。
 1995年はWindows95が発売された年である。このコンシューマ向けOSによって、一般ユーザーは簡単にインターネットに接続することができるようになった。そしてインターネットという存在が社会に認知されるようになり、テレビや新聞、雑誌でインターネット関連のニュースが目に見えて増えていくようになる。この時期、ネットベンチャーは続々と設立された。
 たとえば、インターネットの伝道師と後に呼ばれるようになった伊藤穰一のデジタルガレージ社は1994年に設立され、ウエブ制作ビジネスをスタートさせた。また現在、勝ち組企業とされているグローバルメディアオンラインの前身、インターキューが生まれたのは翌1995年。社長の熊谷氏は1991年にマルチメディア事業を行う目的で株式会社ボイスメディアを設立していたが、普及し始めたインターネットに注目し、1995年にダイヤルQ2を使った低価格ISPビジネスをスタートし、同時に社名をインターキュー株式会社に変更したのである。
 また最近、大阪近鉄バッファローズの買収提案で一躍有名になった堀江貴文氏のオン・ザ・エッヂ(現ライブドア)が創業したのは、1996年だった。堀江氏は東大在学中、アップルコンピュータのパソコン通信運営にアルバイトとして携わったのをきっかけにしてIT業界に足を踏み入れ、このアルバイト先がウエブ制作事業をスタートさせた際には、バイトの身分ながら事業責任者となり、やがて「これなら自分でやった方が儲かるかも」と独立を決意する。そしてバイト仲間たちとともに会社を興したのである。ほかにもたくさんある。孫正義ソフトバンク社長の実弟、孫泰蔵氏の興したインディゴ(1996年設立)、後に光通信と壮絶なバトルを繰り広げることになるクレイフィッシュ(1995年)……。
 この時期に起業されたベンチャーは、現在も“勝ち組”として成功している会社が少なくない。先行者メリットがあったというよりは、優秀な起業家が数多かったということなのだろう。起業ブームの第二波が起きる1998年から1999年にかけて、インターネットビジネスの世界に有象無象の輩がどんどんあふれかえるようになっていったのと比べると、今となってみればその対比はかなり鮮明だ。
 それにしてもこの時期、インターネットビジネスは突然のように勃興してきた。そのパワーの源泉はどこにあったのだろうか。
 日本のインターネットビジネスは若者たちの起業だけでなく、異業種からの参戦組も重要なプレーヤーとして活躍していた。その主力となっていたのは、総合商社である。
 当時、「ニューエコノミー」という言葉が一世を風靡していた。インターネットビジネスの登場とともに、旧来の経済法則は終わりを告げ、産業界は新たな枠組みに突入していくという考え方である。その理論の主要なキーワードのひとつとして、「中抜き」という言葉があった。中抜きというのは、メーカーが直接インターネットを通じて消費者などに商品を販売することで、仲介業者が不要になっていくという意味だ。この理論にたいへんな危機感を抱いたのが、総合商社だった。商社のビジネスというのは売り手と買い手を結びつける、いわば「中」の役割を持っている。。中抜きされたのでは、自分たちの居場所がなくなってしまうと考えたのである。
 そこで商社は、2つの戦略を考えた。ひとつはインターネット上に電子調達のeマーケットプレイスを作り、商社の存在価値を維持しようというもの。そしてもうひとつは、これまで商社が扱ってこなかったオンラインショッピングなどBtoCのネットビジネスに進出することで、この危機を何とか乗り切ろうという考え方だった。
 そんな中で総合商社各社は相次いでネットビジネスに参戦。そして同時に、若者たちが起業したネットベンチャーに対し、積極的な投資も行うようになったのである。総合商社はこの時期、日本のネットビジネスに対するインキュベーターの役割も果たしていたと言っていいだろう。
 総合商社以外に、マルチメディア関連やソフト開発の中小企業がネットビジネスに業態変換したケースも多かった。
 富士通総研はネットバブル末期の2000年夏、ビットバレー・アソシエーションと共同で東京23区のネット企業の動向調査を行っている。その調査結果を見ると、ネット企業の創業年はサンフランシスコやニューヨークよりも東京の方が古く、しかも従業員もサンフランシスコが平均28人、ニューヨークが平均13人だったのに対し、東京は平均78人にも上っていた。これは米国内ではスタートアップベンチャーが大半を占めているのに対し、東京ではネット企業の多くが異業種からの参戦だったことを示している。

■沸騰
 1998年ごろまでは、インターネットビジネスは順調に成長を続けていたといっていいだろう。それが突如としてバブル化しはじめたのは、1999年のことである。
 引き金は、ひとつしかない。ナスダックジャパン(現ヘラクレス)と東証マザーズという新興株式市場が相次いで設立されたことだ。
 国内では長くベンチャー投資の体制が整備されておらず、これが若者たちの起業を阻んでいると指摘されてきた。
 アメリカではベンチャー企業育成が、古くから産業界の中にある種の文化として根付いている。引退した会社経営者が、現役時代に蓄積した莫大な資金を元手に投資ビジネスを始め、すぐれた技術やビジネスモデルを持った人々が興した会社に個人として出資する。こうした「エンジェル」と呼ばれる個人投資家が数多く存在するのに加え、機関投資家が積極的にベンチャー企業に投資し、その企業の新規株式公開(IPO)によってキャピタルゲインを得るというビジネス自体も広く行われている。
 ところが日本では、ベンチャー企業がIPOの行える株式マーケットは存在していなかった。既存の株式市場には、きわめて厳しい上場基準が設けられている。たとえば東証一部は「純資産10億円以上」「最近3年間の利益の総額が6億円以上」など、若いベンチャーにはとうてい実現できなさそうなハードルが設定されている。となると、仮にVCがベンチャー企業に出資しようと考えても、IPOからリターンを得ることはできない。このため1970年代~80年代に設立されたベンチャーキャピタル(VC)は、しかたなく融資を行って利子を得るというノンバンク的なビジネスに手を出さざるを得なかった。つまりは直接金融ではなく、間接金融に走ったのである。これでは銀行の融資と何ら変わりはない。起業家は自宅などの財産を担保にして事業資金を借り入れざるを得なかった。もし一度失敗すれば全財産を失い、二度とビジネスには戻ってこられない。そんな状況の中では、起業に挑戦しようとする人も少なくて当然だったのだ。
 そしてこうした悪循環の状況に風穴を開けようと、ソフトバンクの孫社長が音頭を取って1999年6月、米ナスダックの日本版である「ナスダック・ジャパン」が設立された。そしてこれに刺激された東京証券取引所も同年12月、ベンチャー向けの新市場「トウショウマザーズ」を開設する。そしてこの2つのマーケットの創設によってインターネットビジネスブームは一気に過熱し、バブル状態へと突入してしまったのである。
 上場基準もまだ明確になっていない中で、リキッドオーディオジャパンやクレイフィッシュなどの若いネット企業が次々と上場し、そして公募価格の数倍もの初値をつけた。「戦後最大」と言われた不況の中で、ネット企業への期待が高まっていたこともある。その期待が過熱し、そして沸騰し、投資家たちは争ってネット関連株へと走ったのである。VCは次々とネット企業への投資を行うようになり、莫大なカネがネット業界へと流れ込んでいった。黒字転換どころかほとんど売上も上がっておらず、将来の展望もはっきりしないような若い企業が青山や六本木にオフィスを構え、高給で若者たちを呼び寄せた。カネの亡者が群がり、そしてカネのにおいをかぎつけて、裏社会の連中たちもやってくる。そこには1980年代末のバブル経済期と、まったく同じ構造が出現してしまったのである。
 この時期に起業したネット企業の多くは、黒字化が果たせないでいた。それにも関わらずVCから莫大なカネが投資され続け、新興市場でも株価が高騰したのは、インターネットビジネスに対する「幻想」とも言える奇妙な論理が蔓延していたからである。つまり、最初に最大のシェアを奪った企業だけが生き残ることができると考えられていたのである。このニューエコノミー理論は、カリフォルニア大バークレー校の教授らが書いた書籍「ネットワーク経済の法則」(1999年6月に日本語訳刊)によって一躍有名になり、瞬く間にネット業界の常識となった。トップ企業が市場を奪取した途端、2番手以下の企業はシェアをどんどん落としていくことになり、設備などそれまでの投資がすべて無駄になるとされ、ネット業界は先を争って「無料」「激安」で市場シェアを増やすことに狂奔した。だが考えてみれば、この考え方がすぐに行き詰まってしまうのは明らかだった。あらゆる企業がすべて無料でサービスを提供すれば、1社がシェアを奪うことはできない。逆に消耗戦に陥ってしまい、いつまで経っても売り上げがあがらないという不毛なスパイラルに入り込んでしまう。そして実際、そうした状況に陥る企業は続出した。
 実際、当時の帝国データバンクの統計によれば、調査対象となった都内のネットベンチャー80社の資本金の平均額は6億2040万円で、一般の中小・零細企業よりもはるかに大きかった。しかし年商は平均約5億円と資本金よりも低く、資本増強が売上高の伸びに結びついていなかったことが証明されている。かなりいびつな財務構造だったのである。
 しかしVCからカネが流れ込んでいる間は、少なくとも破たんは表面化しなかったのである。

■崩壊
 ネットバブル崩壊のきっかけは、光通信だった。携帯電話販売を主力業務としていた同社が巨額の赤字を隠して決算発表を行っていたことが明るみに出て、株価が一気に暴落したのである。2000年3月末のことだった。
 これを引き金にして、東証マザーズやナスダックジャパンに上場していたネット企業株も連日ストップ安を続けるようになり、ついにネットバブルははじけ飛ぶのである。たとえばネット企業の象徴的存在だったソフトバンクの保有株含み益は、2000年初頭には5兆円もあったのが、同年秋には4000億円にまで減少してしまっている。時価総額もピーク時の21兆7000億円から5000億円にまで下落しており、巨大なカネが雲散霧消してしまったのだ。他のネットベンチャーも同様だった。
 そして80年代のバブル経済崩壊時、さまざまな経済事件が多発したのと同じように、ネットバブルの崩壊もいくつかの事件を引き起こした。その代表的なケースは、音楽配信のリキッドオーディオジャパンだった。東証マザーズ上場銘柄第一号だった同社は、設立当初から裏社会との関係が取りざたされていたが、2000年10月になって社長(32歳)が逮捕監禁容疑で警視庁に逮捕されてしまったのである。社内抗争で他の取締役を追放しようと、暴行した上で監禁したという容疑だった。
 この事件をきっかけに、ビットバレーやネット企業のイメージは地に墜ちた。「アメリカのベンチャーは技術志向だが、日本のビットバレーには技術力はなかった」「カネの亡者が寄ってたかってインターネットに群がった」と散々な言われようだった。投資家たちも熱が冷めたように資金を市場から引き揚げ、業界は失速していくのである。さらに翌年2001年には、光ファイバー需要のミスマッチを原因とした世界的な通信不況が始まり、日本ではこれにNTTの大リストラと電話交換機網の更新停止というショックが重なり、IT不況と呼ばれる時代へと突入していく。ネット業界もこの不況に引きずり込まれるようにして、暗い日々を送ることになった。

■再編
 だがこの苦しい時期は、新たな幕開けを迎えるための試練の時代でもあった。一部のネット企業は破たんし、消滅していったけれども、ビットバレーなどで育った多くのベンチャーは徐々に地力を蓄えていった。そしてその中から、楽天やライブドア、サイバーエージェント、GMOなど現在「勝ち組」と呼ばれているような急成長組ものし上がってきたのである。
 これらの企業がネットバブル崩壊後のこの時期になり、急激に伸びた背景には、ブロードバンドの普及があった。ブロードバンドによって多くの人々がネットを日用品のように自由自在に使うようになり、ショッピングモールやポータルサイト、ネット広告などの市場を一気に押し広げたのだ。
 逆に言えば、ネットバブルのころはそうした通信インフラさえ整っていなかった。そもそもネットベンチャー起業ブームが最盛期だった1999年ごろは、ダイアルアップ接続の加入件数がようやく全世帯の半数近くに達した時期で、大半は「必要な時にだけ接続し、使い終わったらすぐに切る」という利用形態だったのだ。ネットビジネスの土台がまだできあがっていなかったのである。
 ソフトバンクの低価格ADSLサービス「Yahoo!BB」を起爆剤にして、ブロードバンドが急激に普及を始めるのは2002年である。IT不況の中を堪え忍んできた各ネット企業は、これをきっかけに息を吹き返し始める。そして同時に、業界再編が起き始める。より大きなマーケットを求め、シナジー効果を期待してさまざまなネットベンチャーたちが合従連衡を繰り返すようになるのだ。その再編劇の核となったのは、「勝ち組」と呼ばれる企業群だった。たとえば楽天は、検索ポータルのインフォシークやライコス、宿泊予約サイト「旅の窓口」、ネット専業のDLJディレクトSFJ証券などを次々と傘下におさめた。金融からポータルまでそろえ、「インターネット財閥」と呼べるほどの規模になりつつある。
 また堀江社長のオン・ザ・エッヂ(現ライブドア)も同様で、アスキーECや無料ISPの旧ライブドア、バガボンド(現ネットアンドセキュリティ総研)などを次々に買収した。たとえば旧ライブドアをめぐるエピソードは有名だ。約70億円の資金が投下された同社は約150万人もの会員を集めていたのにも関わらず、赤字体質から抜け出すことができず、苦境にあえいでいた。オン・ザ・エッヂはこの会社を2002年に約2億円という破格の値段で買収。民事再生法のスキームを徹底的に利用し、社員をいったん解雇したうえで再雇用し、高い値段で契約していた通信インフラをすべて安価な回線に切り替えるなど大ナタを振るって、コストをわずか10分の1に減らした。売上高が8000万円と横ばい状態だったのは買収前と同じだったが、1億5000万円もの経常赤字を脱却し、なんと翌月には単月黒字化してしまったのである。
 オン・ザ・エッヂは2004年春には買収相手の名前に社名変更し、2000年の東証マザーズ上場当時には30人ほどしかいなかった従業員数は、現在は1000人以上へと膨れあがっている。総合企業にふさわしい陣容になりつつある。
 今後はこうした再編劇が、さらに進むと見られている。
 ネット業界は、100年前の自動車産業に比べられることが多い。自動車製造・販売というまったく新しいビジネスが立ち上がった二十世紀初頭、アメリカでは200社近い自動車メーカーが乱立した。
 「成長分野での成功を目指してメーカーは乱立したが、その陰では撤退も相次いだ。1925年にウォルター・クライスラーの手によってクライスラーが設立されるまで米国だけで181社のメーカーが乱立していたが、30年代の世界恐慌を経て第2次世界大戦前にはGM、フォード、クライスラーの米ビッグスリー体制が確立した」(「自動車 合従連衡の世界」佐藤正明著・文春新書)
 これと同じことが100年後の今、インターネットビジネスの世界で起きようとしているのではないだろうか。

ビットバレーとは

 ビットバレーが登場したのは、ネットバブルの最盛期だった。渋谷の松濤にオフィスを構えていたネットエイジ代表の西川潔氏が、同じく渋谷・桜丘にあったネットイヤーグループ代表の小池聡氏の草案をもとに、「Bitter Valley構想」を宣言。1999年3月のことだった。
 「時は世紀末、100年に一度の大社会変革期の真っ最中。そして、その重要な主役がインターネットであることに気づいた若いベンチャー企業が東京・渋谷付近に続々と集積している。おそらくその土地の風が未来有為の若者を惹きつけるのであろう。渋・谷=Bitter Valley、そう、アメリカにSilicon Valleyがあるなら、日本にはBitter Valley がある」
 ゴロの良さからBitter ValleyはBit Balleyに改名され、活動支援団体のビットバレーアソシエーション(BVA)が設立された。そして月に1度、ビットスタイルという名前の交流パーティーが開かれるようになったのである。当初は真面目な集まりだったのが、月を追うごとに肥大し、ついには数千人が集まる騒ぎとなった。
 ビットバレーの名前も流行語となり、ファッション雑誌や若者向け男性雑誌で「ビットバレーのライフスタイル」「ネットビジネス成功者の生活はこうだ!」などという特集が組まれるまでになった。渋谷の外れ、富ヶ谷や代々木上原周辺に洒落たオフィスを構え、Tシャツに短パンでマウンテンバイクにまたがって軽やかに通勤する――というスタイルがカッコいいともてはやされたのである。
 ビットバレーの最高潮となったのは2000年1月、六本木のヴェルファーレで開かれたビットスタイルだった。約2000人の参加者でぎっしりとなった会場には、好奇心でやってきた若い女性、その女性をナンパする目的で来た男たち、見るからに怪しい業界人などありとあらゆる人物が集まった。もっとも盛り上がったのは、孫正義ソフトバンク社長が演台に登場した時だった。
 「今日はビットバレーの交流会のビットスタイルに出させてほしかった。ところが、スイスの公演先からの定期便には間に合わない。そこで、3000万円かけて飛行機をチャーターして駆けつけました!」
 孫社長がそう叫ぶと、会場は「ウォーッ」というどよめきに包まれ、大きな拍手が沸いたのである。
 だがあまりにも肥大し、暴走したビットバレーに対しては、運営母体のBVAみずからが収拾できなくなってしまい、ビットスタイルもこのヴェルファーレの回を最後に中止された。その後BVAは富士通総研との調査研究などまじめな活動を続けていたが、現在は休止状態となっている。
 このビットバレー最盛期、業界内で盛んに読まれた「ビットバレーの鼓動」という書籍があった。2000年3月に出版されたこの本は、当時の熱狂ぶりを無批判に描いており、今読むとかなり恥ずかしい気持ちになる。ちなみにIT系出版社の役員を務めていた同書の著者がその後、児童買春で逮捕されて会社をクビになったのは、何かのブラックジョークとしか思えない事件だった。
 その書籍も、今は絶版となっていて手に入らない。そしてビットスタイルという名称も消え、今では人気キャバクラの名前としての方が有名になってしまった。時代は移り変わっている。

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September 06, 2004

ブログビジネスの可能性を探る(Computer World 2004年9月)

 ブログが大ブームを迎えている。2000年ごろに米国からスタートしたブログムーブメントはインターネットにおけるコミュニケーションの主力の座を奪いつつある。ソフト開発の米パーシアス・デベロプメントによれば、米国内のブログ数は昨年秋に400万件を突破。今年末には1000万件に達する勢いだという。米国に若干遅れてブログブームが始まった日本でも、ライブドアやニフティなどが相次いでブログサービスの提供を開始し、利用者は急増しつつある。
 ブログ文化の先には、いったい何が待ち受けているのだろうか。現状ではブログは、個人ホームページや電子掲示板に替わる新たなコミュニケーションツールとしての注目度が高い。
 だが実は、ブログの可能性はこれだけではないのである。インターネットビジネスや企業のイントラネットに、新たなパラダイムを持ち込む能力も秘めているのだ。そしてそうしたブログのパワーに目をつけ、ビジネスに取り入れていこうという動きは、すでに現れている。ここではインターネットマーケティングの世界にブログを持ち込もうとしている株式会社カレンの取り組み、そして企業のイントラネットにブログを導入する「イントラブログ」を提唱している日立製作所の製品について紹介したい。

 なぜインターネットマーケティングの世界で、ブログが注目されつつあるのだろうか。
 その理由を探るためには、まずインターネットにおけるダイレクトマーケティングの歴史をさかのぼらなければならない。
 1990年代半ばに始まったインターネットビジネスの黎明期に、企業から情報を消費者に伝え、さらに消費者の動向を探るツールとして最も一般的に使われたのは、ウエブだった。多くの企業は先を争って、情報発信の手段としてのウエブサイトを立ち上げた。そしてポータルサイトなどに貼られているバナー広告を使い、消費者を自社サイトへと誘導するモデルが盛んにもてはやされたのである。
 画像を使ったウエブの豊かな表現力やHTMLの情報の集積度はきわめて高く、物珍しさも手伝って、消費者を惹きつけることに成功したのである。
 しかしウエブには限界があった。ウエブページにしろバナー広告にしろ、しょせんはプルメディアである。消費者を一回は引き込むことはできるものの、何度もページにアクセスしてもらうことは難しい。プレゼントキャンペーンなどを実施すると、従来の雑誌やラジオなどの媒体とは比べものにならないほど多くの応募を集めることができるようになったものの、そうしたアクセスのほとんどが一過性で終わってしまうのである。テレビのチャンネルを頻繁に替える行為を「ザッピング」と呼ぶが、サイトを瞬時に切り替えることができ、しかもテレビとは比較にならない膨大な数のサイトが存在するウエブの世界では、顧客を長期間にわたってつなぎ止めることは、相当な努力をしてもかなり難しかったのである。
 そんな中で登場したのが、メールを使ったマーケティング――いわゆるメールマーケティングと呼ばれる手法だった。メールはウエブと異なり、強力なプッシュツールである。ウエブサイトを再訪してくれない消費者に対しても、企業の側から情報を送り、呼び込みを行うことができる。
 メールマーケティングの初期には、自社のサイトを訪れてもらうために顧客を誘導するためのメールがほとんどだった。自社サイトのURLとキャッチコピーだけをメールに掲載するという単純な内容のものが多かった。いわばウエブマーケティングを補完する存在として、メールが使われていたわけだ。だがこれだけでは、消費者に対して魅力のあるコンテンツを提供しているとはいいがたい。いくらメールで告知されても、魅力のないウエブには消費者はやってこない。さらに、内容のないメールをあまりに頻繁に送ること自体が「スパム」「迷惑メール」として社会的な批判を浴びるようになり、メールマーケティング自体が瀬戸際に立たされた。
 そうした反省から生まれてきたのが、配信承諾を受けた消費者だけに送られるオプトインメールであり、そして徹底的にパーソナライズされたワントゥーワンのメールである。顧客を細かくセグメント化し、その人だけに宛てたダイレクトなメールを送り、親しみやすさを前面に打ち出す。こうした新しいメールマーケティングの手法が消費者に受けいれられた背景には、メールマガジンの大ブームもあった。インプレスの看板雑誌「iNTERNET magazine」を創刊した故・山下憲治氏が種を蒔き、深水英一郎氏がメールマガジン配信サービス「まぐまぐ」で大ブレイクさせたメールマガジン文化は、1990年代末における日本のインターネットコミュニティの一大ムーブメントとなったのだ。
 この時期、メールマガジンという新たな媒体の登場に多くの業界人たちが興奮し、さまざまな種類のメールマガジンが続々と発行された。そしてこのムーブメントをビジネスに取り込む形で、メールマーケティングが企業のマーケティング手法として定着していったのである。
 ウエブとメールをめぐるこの構図自体は、現在もほとんど変わっていない。マーケティング業界の関係者は、「ウエブは商品カタログで、メールが営業マンというアナロジーを考えればわかりやすい」と話す。つまりウエブは誰でも見られる情報が会社名の下にスタティックに置かれており、オフィシャルなドキュメントという色彩が強く、印刷物に似た性格を持っていると言える。つまり商品カタログや会社案内、PR誌に近い存在なのだという。美しく見やすいが、店頭に置いてあるだけではなかなか手にとってページを開いてもらえず、おまけに何度も読んでもらうのはもっと難しい。
 一方のメールは、先に書いたようにウエブのこれらの欠点を補うことができる。メールを使ってウエブに誘導するといった手法は、まるで営業マンが顧客に対し、「こんな商品があるのですが、いかがですか」と商品カタログのページを開いてみせるようなものだというのである。つまりメールというパーソナルなコミュニケーションツールは、親しみのある言葉で顧客に語りかけることができるわけだ。実際には単なる親しみやすさだけでなく、裏側では徹底的なデータベースマーケティングが行われ、顧客が細かくセグメントに分けられ、その顧客にあった言葉と商品を選び、メールが送られている。たとえば購買意欲の強い人には積極的に買い物を促すメールを送り、特定のジャンルの商品に興味のある顧客に対しては、その分野にターゲットを絞ったメールが届くのである。
 しかし、この相互補完関係にはまださまざまな課題が残っている。その最も大きなポイントは、ウエブのセグメントとメールのセグメントが遠く離れ過ぎていることだ。ウエブが対象とする層はきわめて広い。Google検索しているうちにちょっと立ち寄っただけのユーザーから、その会社に少々興味を持って訪れているユーザー、そしてその会社の製品の熱狂的ファンまで、あらゆる層が含まれている。それに対して、メールというのはその会社の製品に対してきわめて強い志向を持っているユーザーに向けたメディアである。これだけ個人情報漏洩が問題になっている中、わざわざメールアドレスを企業に伝えてきてくれるユーザーというのはかなりセグメントとしては細かいといえるだろう。ある業界関係者は「消費者に対して、ウエブのターゲット層から一足飛びにメール層へと移ってもらうのはきわめて難しい」と話すのである。
 さて、前段が長くなった。そこでブログという新たなメディアが注目されているのである。端的に言えば、ブログはいま述べたようなウエブとメールの間の距離を埋めてくれるメディアになるのではないかと期待されているのだ。
 マーケティングツールとしてのブログビジネスに取り組んでいる株式会社カレンの広報室長、四家正紀氏は語る。
 「メールは非常に強力なマーケティングツールとして考えられており、そう簡単に他のメディアに代替されるとは考えていない。インターネットユーザーのほぼ100%がメールを毎日習慣的に使っているというメディアは、メールをおいて他にないからです。しかしメールでやってきたことの一部がブログで代替できるのではないか、あるいは今までのメールでできなかったことがブログで可能になるようになるのではないかと考えています」
 四家氏がブログに注目している理由は、次の2点だ。まず第一に、ブログはウエブ上で表現されているのにも関わらず、プッシュツールの性格を持っていること。具体的には、つまりRSSリーダがそうだ。RSS(RDF Site Summary)は記事のようやくやタイトルなどの情報をXMLで記述するフォーマットで、ブログはサイトの更新情報を自動的にRSSフォーマットで発信することができる。そしてこのRSSを自動収集し、一覧として表示してくれるのがRSSリーダと呼ばれるクライアントソフトである。このRSSリーダを使えば、メールクライアントに似たスタイルで、情報をプッシュ型配信することができる。RSS以外にもトラックバックやコメント、Pingなど、ブログには読者を積極的に呼び寄せるための仕掛けが数多く用意されている。いずれも、従来の一般的なウエブサイトには存在していなかったものだ。
 第2に、ブログがきわめてパーソナルなツールであるという点がある。四家氏は「ブログはメールと同様に、個人が情報を発信するツールとして使われているため、公的なウエブと比べ、『私』を前面に出して感想を書いたり、写真を入れたりしやすい」と話す。先に商品カタログと営業マンというアナロジーを紹介したが、ブログもメールと同様に「営業マン」としての役割を持たせられるのではないかというのである。
 ただブログはメールと比べ、コミュニケーションのあり方が1対1ではなく、1体多となる。パーソナル度はメールよりも低いといえるだろう。たとえばRSSリーダにしても、現時点では特定の志向を持った個人に向けたパーソナルなRSSの配信を行うという仕組みは持っていない。セグメンテーションが不可能なのである。これはあくまで技術的な課題でしかなく、将来的には問題は解決される可能性は高い。だがメールよりもパーソナル度は低いが、一般のウエブよりはずっとパーソナルであるという性格を逆手にとって、先に述べた「ウエブとメールの間」を埋めるメディアとして有効活用するということは十分に可能だ。
 「ウエブを見に来てくれるユーザーという広い母集団の中で、少しゆるい囲い込みとしてのブログユーザーを設定する。メールを読んでくれるほど積極的ではないが、ウエブよりはもう少し情報を知りたいという人が、その商品に関するブログを読みに来てくれる。そうしたブログユーザーの中から、さらにもう一段その商品を好きになってもらった人に、初めてメールアドレスを預けてもらい、メールマガジンを配信する。そうすれば『さほど積極的に好きではないが、多少の興味はある』という程度の人に大量にメールを送りつけて嫌がられてしまう、という事態に陥る可能性は低くなる」(四家氏)。
 さらに、ブログに加え、メールマガジンも読もうと考えている人はその商品に対してかなり積極的な意志を持っていると判断できる。そうすればメールマガジンといった1対多のメディアだけではなく、営業マンが直接メールを書いて、『来週お店にいらっしゃいませんか』といったきめ細かなフォローまでもできるようになるかもしれない。囲い込みのツールとして、ブログは新たな枠組みを作り上げる可能性も秘めているのだ。
 だがブログというコミュニケーションツールは始動し始めたばかりで、まだ課題は数多く残されている。ブログが一般社会の中に浸透していくためには、RSSリーダの普及が欠かせないが、現状では依然としてマニアの世界でしか使われていないと言っても過言ではないだろう。とはいえ、Mac OS X v10.4 TigerにはSafari RSSが搭載されたし、またWindowsの次期バージョンであるコードネーム「Longhorn」にもRSSリーダの搭載が予定されている。今後はごく日用品的なツールとして普及していくことが期待されている。
 一方、こうした技術的な問題とは別の次元で、ブログにおける世論を企業側がどう扱うかという根源的な命題も眼前に横たわっている。
 たとえば新発売された清涼飲料水の「コカコーラC2」。コカコーラが6月、満を持して世に送り出した戦略的な新商品である。ところがこの「コカコーラC2」というキーワードを使ってGoogleなどで検索してみると、検索結果ランキング上位10位のうち、何と半分以上を個人のブログが占めてしまっているのである。つまりコカコーラのオフィシャルサイト以外の大半は、個人が「C2はおいしかった」「いや、あまり好きじゃない」といった感想で占められているという異常な事態になってしまったのだ。
 ブログが登場する以前は、こんな事態は生じなかった。個人が自分のウエブサイトでどんな感想を書こうとも、Googleなどの検索結果ランキングでは下位にしか入らず、上位は会社のオフィシャルサイトや販売サイトなどがずらりと占めていた。
 いったいなぜ、こうした逆転現象が起きてしまったのだろうか。
 検索エンジン業界の専門家によれば、その理由は次のようなものだ。まず第1に、ブログはトラックバックで相互にリンクが張られているから、ページランクが高くなりやすい。ページランクというのはGoogleが開発したテクノロジで、「人気のあるサイトからリンクされたサイトは、重要なサイトである」という判断を行い、そのランク付けを数値化してページランクと呼ぶ。そしてページランクが高いサイトを、検索結果ランキングの上位に置くというものである。以前は個人のウエブサイトのほとんどは「孤島」となっており、相互のリンクは決して多くなかった。ところがトラックバックやPingを核としたブログコミュニティでは相互に膨大な数のリンクが張られており、ページランクはどんどん高くなっていくのだ。
 第2に、ブログは1エントリー(記事)が1ファイルに整理されており、ページ数が多い。そしてコンテンツ自体もXMLで構造的に記述されている。これは「テキスト中心のスタティックなページをたくさん作れば、検索エンジン上位に入りやすくなる」というSEO(検索エンジン最適化)の考え方に、見事に合致する。ブログは期せずして、みずからSEOを実施してしまっているとも言えるのである。
 こうした状況を見れば、ブログコミュニティから発信されるコンテンツは、無視できないほどの規模と質を兼ね備えつつあるといえるだろう。そしてそれらのコンテンツは、必ずしも企業の味方をしてくれるとは限らない。先に挙げたコカコーラC2に関するブログでも、その味に対しては批判的な意見が多かった。企業の広報担当者の中には、こうした書き込みに対しては嫌悪感を抱き、拒否反応を示す人も少なくないだろう。
 しかし、カレンの四家氏は「ダイレクトマーケティングの見地から見れば、こうしたブログの書き込みはもう無視できない段階にまで来ています。社会問題からライフスタイル、商品への注文、企業に対する意見など、さまざまなことを言いたいと思っている人がいて、これまでは匿名掲示板の『2ちゃんねる』や個人サイトで意見を書くことしかできなかった。ところがそうした人たちがブログというツールを得たことで、きわめて強い発信力を持つようになったのだと思う」と説くのである。
 四家氏によれば、2ちゃんねると比べ、ブログでは発言の信用度が調べやすくなったという面もあるという。2ちゃんねるは巨大な情報データベースを構築しているものの、「荒らし」を代表とするノイズは多く、おまけに発言をどこまで信用していいのか判断しかねる場面が多い。たとえば「○○企業の××という製品は使えない」という書き込みがあったとしても、匿名掲示板ではその書き込みを行っているのがその企業の関係者なのか、その製品について詳しいユーザーなのか、あるいは敵意のあるライバル企業の社員なのか――そうしたバックグラウンドはまったくわからない。正当な批判であるのか、単なる誹謗中傷なのかが判断できないのである。
 それに対して、ブログの場合は書き手がさまざまなできごとや商品に対し、さまざまなコメントを加えているのを読むことで、その人がどのようなバックグラウンドを持ち、どのような批評眼を持っているのかを知ることができる。「それは営業マンが単にモノを売り込むだけではなく、営業先で雑談を繰り返し、自分のキャラクターを相手に売っていくことで徐々にビジネスへとつなげていくという行為と似ているかもしれない。自分のキャラクターを信用してもらうことで、自分の商品(発言)への信用度が高まっていくのです」(四家氏)。
 ブログが作り出す新たなインターネットコミュニケーションは、大きな可能性を秘めている。ネットマーケティングの世界も、ブログ時代に入って新たなパラダイムへの転換を迫られることになるのだろう。

 先に書いたように、ブログはインターネットコミュニケーションのあり方を、さらに一歩進めるパワーを持っている。
 そのパワーを企業のイントラネットやナレッジマネジメントに生かそうと考えているのが、日立製作所でグループウエア「BOXER」を開発しているチームだ。BOXERはスケジュールやアドレスといった個人情報やグループ内での共有情報などを効率よく管理することができるソフトで、同社は「コラボレーションウエア」と呼んでいる。最新バージョンの「BROADNETBOXER V.」がリリースされている。
 日立製作所コラボレーションウエア設計部BOXER GROUP部長代理、小川浩氏が話す。
 「これまでのグループウエアでも、社内にどのような名前の人がいて、どこの部署に所属しているのかといったことを探すことはできます。しかしその人がいったいどんな人物で何をしていて、所属する事業部でどんなプロジェクトを進めているのかといったことを検索するのは、非常に難しかった。しかしブログはKnowWhoの方法としてはこれまでのイントラネットとはまったく逆のアプローチを取ることが可能で、発信する側がどのようなことに興味を持ち、どんな仕事をしているのかが即座にわかるのです」
 そこで小川氏らは、グループウエアを補完するツールとして「イントラブログ」というものを考えた。「ブログは分散的で、サブジェクトごとにエントリーが登録されている。そのあたりがわれわれが目指していたコラボレーションウエアという考え方に、非常に近いと思った。そこで、ちょうど日本法人ができたばかりだったシックスアパートと協力し、グループウエアを補完するツールとして開発を進めることにしたのです」という。シックスアパートというのは、ブログツールのMovable Typeを開発している企業である。
 イントラブログの仕組みはこうだ。
 もっともシンプルな形式は、部署内にひとつのブログを設定。そのブログに対して部員全員が投稿し、そして全員が閲覧してコメントしあうというスタイル。これは従来の電子会議室に非常に近い。
 さらにもう一段進化すると、事業部ごとや部署ごとのブログに書き込まれたエントリー(記事)が、フィルタリングされて自動的に関係する別の部署のブログにもコピーされていくというタイプ。部署内だけにとどまらず、他の部署との間で有機的な情報共有を行うことができる。
 さらに最大限発展した形では、社員全員が自分の個人ブログを作り、そこに営業日報などをエントリーとして書き込んでいく。必要に応じてそれらのエントリーの一部が課のポータルブログや事業部のポータルブログ、全社のポータルブログへと自動的にコピーされる。外部に出せない機密情報が含まれている場合には、部署内だけにコピーをとどめたり、あるいは上司にしか閲覧できないようなアクセス制御をかけることもできる。
 社員は自分のブログに書き込むのと同時に、会社から配布されたRSSリーダを使って自分の所属する部署のポータルブログや全社のポータルブログで更新されたエントリーを読んでいくことができる。もちろん、閲覧を許されている同僚や上司、部下のブログのエントリーに対し、コメントやトラックバックを与えることは自由に行える。
 ブログを社内コミュニケーションの手法として利用するメリットは、4つある。
 まず第1には小川氏が説明しているように、埋もれた人材を発見しやすいという点だ。これまでのナレッジマネジメントのKnowWhoでは、まず社員を所属部署や技能、肩書きなどに従ってカテゴライズしなければならなかった。だがブログを使えば、カテゴライズは不要である。社員が自分の興味対象や仕事のノウハウ、進めているプロジェクトに対するコメントなどを自由に書き込み、それに対して同僚たちがトラックバックやコメントを加えていく。たとえばトラックバックが集中するような社員がいれば、その人の情報はきわめて価値が高いと判断できるようになる。エントリーとトラックバックが積み重なっていけば、特定の事柄や分野について自然と情報が集積していき、その集積地の中心にどのような社員がいるのかが自然と浮かび上がってくる。「評価されるのは人間力や知識などで、これまでのイントラネットでは評価されにくかったアナログな情報を、デジタライズして発見しやすくなる。つまりはスーパースターが生まれやすくなるのです」(小川氏)。
 社員同士の横の連携が重視されるようにはなってきているものの、会社という組織は基本的には縦割りである。その中に横軸の情報連携をどう取り込んでいくのかというのは、ナレッジマネジメントの世界では長年の課題となっている。情報や人材をカテゴライズし、ディレクトリの中にきちんきちんと納めていくという従来のナレッジ手法は、依然として縦割り的な枠組みを超えられないでいると言えたかもしれない。しかしトラックバックで武装したブログは、そうした枠組みをぽんと飛び越え、縦割り企業の中に一気に横軸の情報共有を取り込む強力な“仕掛け”と言えるだろう。
 「会社のルールでエントリーを制限しようとするとそれはブログじゃなくなってしまうし、そもそもブログはそういうことには馴染まない。むしろ自由に自分のフィールドの中で書いて、それを会社の組織構造の中にうまく流し込んでいくという仕組みを作った方がいいと思う。われわれのイントラブログは、ブログと会社の間をうまく接着させ、情報が流れ込んでいく仕組みを作ろうとしているのです」(小川氏)。
 そして第2に、ダイレクトマーケティングのところでも紹介したように、ブログには情報を検索しやすいという長所がある。
 グループウエアを提供しているソフト開発会社の関係者は、次のように説明する。
 「蓄積された情報をどう引き出すか。イントラネットで使われている全文検索のエンジンの多くは性能が今ひとつで、情報を探すのは簡単ではなかった。しかたなく情報を細かくカテゴライズしてフォルダに納めようとすると、今度はジャンルの境界線にあるような情報をどこに納めるのかという問題が生じ、挙げ句はフォルダがどんどん増えてしまって収拾がつかなくなる」。
 だがブログはXMLで構造化され、情報を検索しやすい仕組みを持っている。小川氏の説明。「たとえば昔の手書き認識機能が、手で入力したアルファベットを完璧に認識しようとしてうまくいかなかったのに対し、Palm OSではGraffitiという方法を使い、手書き文字そのものを機会に認識しやすい形式に変えるという逆転の発想を持ち込んだ。イントラネットでも同様で、蓄積する情報を検索エンジンに検索されやすい構造に変えればいい。つまり、情報をブログで書けばいいのです」。
 第3に、ブログは書き込みという行為に対するハードルが低くなる可能性がある。
 日本では1990年代、多くの企業がナレッジマネジメントを導入したが、失敗に終わったところは少なくない。最大の原因は、各人が持っている質問や、それに対する情報を積極的に書き込む人が少なかったことだ。書き込みに対するインセンティブをどう与えるのかという難問に対しては、いまだにさまざまな試行錯誤が繰り返されている。
 ブログがこのハードルをどれだけ下げるのかはまだわからない。だが公的な雰囲気の強い電子会議室と比べて、パーソナル度が高く、取っつきやすいメディアであるのは街がない。小川氏は「ブログは自分のための備忘録という要素が強い。自分のためにブログを書き、その中で必要なエントリーだけが外部にコピーされていくというイントラブログの仕組みであれば、書き手の側はあまり気にせずにさまざまなことを書き込むことができるようになるはずだ」と話す。
 そして第4に、ブログはXMLで書かれた標準化技術であるというメリットがある。ハードウエアベンダーが異なり、その上で動いているOSが異なっていても、標準的なブログが動作していれば、それらを結合し、トラックバックやエントリー複製などで連携させていくのは非常に簡単に実現できる。企業の部署ごとに導入し、後から結合させることが可能だし、あるいは企業の合併や買収の際にも結合させるのは簡単だ。
 こうしたメリットを並べてみると、確かにブログは社内の強力なコミュニケーションツールとしてかなり期待できそうなことがわかる。
 もちろん、万能ではない。たとえばスケジュールをブログ上で作り、それを全員で共有するという使い方はブログには向いていない。あいまいな情報を有機的に結合させるの能力は高いが、かっちりとした形でデータを集積させるのはブログは得意ではないのである。そういう意味では、ブログはグループウエアやナレッジマネジメントツールを駆逐してしまうのではなく、小川氏の言うように、あくまでもそれらを補完する存在として期待されているということなのだろう。
 日立製作所ではすでに7月1日から、「BOXEBLOG powerd by TypePad」という名称でイントラブログのASPサービスを開始している。ディススペース200MBで帯域が5GB/月の「PRO」(月額1260円)と、ディスクスペース1GBで帯域が50GB/月の「BUISNESS CLASS」(月額15750円)の2種類のコースが用意されている。すでに多くの企業から引き合いが来ており、今後あちこちの企業で本格的な導入が進んでいくことが期待されている。

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京都府警のWinny突破の手法が、ついに明らかに(Asahi.com 2004年9月)

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