インターネットとはいったい、誰のものなのか?
そんな根源的な問題をめぐり、いまインターネット世界では議論が沸騰している。直接の引き金となったのは、2003年12月にジュネーブで開かれた世界情報社会サミット(WSIS)。国連機関である国際電気通信連合(ITU)が開いたこの会議の席上、中国やブラジルなどが「インターネットの統治権を米国政府からITUに移せ」と要求したのである。
インターネットの統治権――はやりのカタカナ言葉で言えば、「インターネット・ガバナンス」である。これまでボランティアベースで運営されてきたインターネットの世界を、どのような運営スタイルに移していくかという議論といえる。
いったい何が変わり、どこへ進もうとしているのだろうか?
その前にまず、インターネットの成り立ちを簡単に振り返ってみよう。
インターネットは1969年、米国防総省の研究機関であるDARPA(Advanced Research Projects Agency)の研究からスタートした。当時はインターネットは国防総省の予算によって維持され、ARPANETと呼ばれていた。
当初はプロトコルにNCP(Network Control Protocol)を使っていたが、70年代に入ってTCP/IPモデルの開発が始まり、80年代前半に実装されるようになった。そしてこの時期、ARPANETと並行して米連邦政府機関の全米科学財団(NSF)がNSFNETを立ち上げ、後に運用終了したARPANETを吸収して現在のインターネットを形成していくことになる。DARPAにせよ全米科学財団にせよ、米国政府の機関であることには変わりはない。この時代のインターネットは、米国政府のカネで維持されていたとも言えるかもしれない。
この時代からインターネットに深く関わっている日本ネットワークインフォメーションセンター(JPNIC)の丸山直昌理事は、次のように話す。
「初期の先駆的な技術者たちが国防総省の予算でインターネットを研究したのは事実であるし、同省や全米科学財団はこの当時も、さまざまな研究予算を拠出していた。だがインターネットにはさまざまな技術者が集まり、そして米国政府以外の研究予算で発展した部分も少なくない。結局、インターネットは誰のものでもなかった」
一方で、インターネットに関わる技術者たちは、1992年にISOC(Internet SOCiety)という団体を設立。主に技術的側面からインターネットの普及促進を支え、インターネットコミュニティの中心とも言える存在になった。下部組織にはインターネットの技術標準を統括するIAB(Internet Architecture Board)、さらにその下には実際に技術標準の決定を行うIETF(Internet Engineering Task Force)がある。
ただISOCは、会費を支払っている個人会員によって構成されるボランタリーベースの学術団体的な組織であり、法的な基盤はなかったといえる。この問題は現在に至るまで、「インターネットは誰のものか?」という論争の底流となっているとも言えるのだ。
ドメインの話に入ろう。
インターネットの名前解決は、当初はhosts.txtという照合表をAnonymous FTPで公開することによって行われていた。DNSの運用がスタートし、ドメインが利用されるようになったのは1985年である。この年、最初のドメイン登録も行われた。
この当時は、ドメイン管理はSRI-NIC(Stanford Research Institute's Network Information Center)が行っていた。だが93年になり、ドメイン登録が増えて業務が膨大になってきたことから、インターネットを維持していた全米科学財団と技術者集団のISOCは連名で、ドメインとIPアドレスの割り当て業務を行ってくれるところを公募することになったのだ。そしてその募集に手を挙げたのが、当時はまだ名も知られていない小さなベンチャー企業だったネットワーク・ソリューションズ(NSI)だった。
このあたりの経緯は多少ややこしい。実はISOCの下部機関としてIANA(Internet Assigned Numbers Authority)という団体が1977年に設立され、IPアドレスとドメインの割り当て管理を行っていた。だがIANAには法的な権限がなかったことから、ドメイン登録業務を外部に委託する際、契約は米政府機関である全米科学財団と民間企業のNSIの間で行われることになったのである。
ここでもISOC、IANAに法的権限がないことが構図に混乱をもたらしている。そしてこの問題は後に、さまざまな火種を残す結果となった。とはいえ、この段階ではまだインターネットの世界は、日々平穏無事に過ぎていた。インターネット利用は、ネットワークを知り尽くした技術者たちのサークルの中だけであり、衝突は起きにくい。
ところがこうした枠組みが、変化を迫られる時期がやってくる。それは1994年ごろから始まった。インターネットが一般社会で爆発的に普及しはじめたのである。企業のブランディングの一環としてドメインを取得する企業が増え、サイバースクワッタ(ドメインの不法占拠)が出現し、ドメインの不足が問題になった。それまで企業で利用できるジェネリックトップレベルドメイン(gTLD)が実質上、.comと.netの2つしかなかった状況に対し、新たなgTLDを作ってほしいという要求が高まった。
おまけに企業側からは、どこが管理しているのかわからないインターネットのドメインは、非常に不可解な枠組みに映った。そもそも、当時はネットコミュニティに対する理解も十分ではなかった。ドメインを取ろうとしたら、類似社名の他社にすでに取得されているといった事態が相次いだが、そうした企業からは「いったい誰が何の権限で、他社にドメインを与える許可を与えたのだ?」という疑問が提示されることも多かったのである。
いったい誰が何の権限で――。インターネットコミュニティは、答のない疑問を突きつけられた格好になった。そもそもインターネットは技術者たちのボランタリーベースで運営されており、オーソリティの根拠にはっきりしたものはない。
加えて、NSIに対する反発が、批判に拍車をかけた。全米科学財団からgTLDに関する登録業務を93年に委託されたNSIは、95年から登録を有料化する。当初は米国政府の予算で登録無料を維持していたが、ドメイン登録の激増でコストが急増し、維持できなくなったためだ。登録料は2年分の維持料を含む初期費用が100ドル、3年目以降は毎年50ドルと定められた。これによってドメイン登録のコストの問題は解消したものの、逆にNSIへの批判が燃え上がることになる。NSIが儲かりすぎたためだ。
当時の事情に詳しい関係者は語る。
「NSIは93年にドメイン登録をスタートさせ、有料化した時期には100万ドメインを超えていた。1カ月に1000件だったペースは瞬く間に1日1000件、1日10000件と等比級数的に増えていき、有料化したとたんに入ってくる収益も膨大なものになった。当時、NSI本社を訪れたことがあったが、オフィスには銃を持った警備員が常駐し、幹部は『ものすごいカネが流れ込んできている』と豪語していた」
「不当な独占ではないか」という批判が巻き起こったのも当然だった。そしてインターネットコミュニティは、こうした問題への早急な対応を迫られたのである。
そこで96年に作られたのが、IAHC(Internet Ad-Hoc Committy)だった。IAHCはISOCの下部機関である。前出の丸山氏が語る。
「サイバースクワッティングへの対応やトップレベルドメインの不足、それにNSIの独占に対する批判などに対し、どのように応えていくのかがISOCなどで盛んに議論された。しかし既存の組織では、これらの問題に対応できなかった。インターネットの技術標準を議論しているのはISOC傘下のIETFだが、当時も今も法人格がなく、法的な根拠もない。さらにIETFに参加しているのは技術者たちで、彼らは政治的な議論をあまり好まないということもあった」
IAHCは猛スピードで議論を行った。5時間以上も続く電話会議を週に3回も行い、突貫工事並みの短い時間で提案文書を作り上げたのである。内容は、次の3点から成っていた。
①ドメイン管理の仕組みとしてgTLD-MoU(Memorandum of Understanding:覚書)を作成し、賛同する人の署名を集めて権威付けを行う。
②7つのgTLD(firm、store/shop、web、arts、rec、info、nom) を新設する。
③ドメイン紛争については、世界知的所有権機関(WIPO)の役割に期待する。
そして97年にgTLD-MoUへの署名が集められ、翌98年には新しいgTLDを管理する会社の募集まで行われた。IAHCの計画は、軌道に乗り始めるかに見えた。
ところがここで突然、米政府が乗り出してくるのである。
98年1月、米政府は通称「グリーンペーパー」と呼ばれる文書を発表した。正式名称を「インターネットの名前及びアドレスの技術的管理の改善についての提案」という。その内容は、驚くべきものだった。米国政府がインターネットの正式な所有者であると宣言していたのである。
「今日のインターネットは、パケットスイッチング技術及びコミュニケーションネットワークに対する米国政府の投資から生まれた結果である。(中略)1992年、米国議会は、全米科学財団に対して、NSFNETを商用化するための法的な権限を与えた。これが今日のインターネットの基礎となっている」(JPNIC訳、http://www.nic.ad.jp/ja/translation/icann/bunsho-green.html)
そしてドメイン管理はインターネットユーザーを代表する単一の組織に任せるべきであるとし、民間の非営利法人の創設を提案したのだ。
これに対して、インターネットコミュニティからは大きな批判が巻き起こった。「世界各国のさまざまな研究者が共同で作り出したインターネットを、米国は独占しようと言うのか?」
米政府はこれに若干譲歩する形で、半年後に「ホワイトペーパー」(インターネットの名前およびアドレスの管理、http://www.nic.ad.jp/ja/translation/icann/bunsho-white.html)を再度提案する。この文書では米政府の権利については若干譲歩したものの、IAHCの提案に対しては「技術者たちによって支配され、ビジネス関係者やその他の人々の参加、意見が欠如しており、非難の的になった」と切り捨てた。そして再度、新しい非営利組織の創設を求めたのである。
それに応えるかたちで創設されたのが、IANAを発展的に解消した新組織――ICANN(Internet Corporation for Assigned Names and Numbers)だった。
IAHCやIANAなどに法的権限がなく、さまざまな問題を引き起こしたことから、ICANNは法人登録され、米商務省との間でIPアドレスとドメインに関する契約が結ばれた。1998年11月のことである。
実際、ICANNは創設後、ドメインを管理する組織と登録申請業務を行う企業を分割した「レジストリ・レジストラ」制度を導入し、7つの新gTLD(IAHCの提案とは別のもの)を新設。さらにドメイン紛争の処理方針を策定するなどの成果を挙げた。
ICANNの設立により、政府の干渉からインターネットの自主独立を守り、さまざまな問題も解決するかに思われた。
しかしICANNが動き出してから、深刻な問題が次々と噴出するようになったのである。
最大の問題は、理事会運営の不透明さだった。そもそも理事の選出自体、どのように行われたのか公開されていなかった。ICANNに関わっている関係者のひとりは、次のように証言する。
「ICANNの理事には、米政府が反対しない人を選ばなければならない。さらに、ICANNのはいずれ、ドメイン管理の法的根拠を問われて何らかの形で訴訟に巻き込まれる可能性もある。そうした裁判に耐えうる人物を理事にしなければならない。主要メンバーと顧問弁護士らはそうした要素をさまざまに考慮し、きわめて政治的な判断で理事を選んだ」
この証言を裏付けるように、初期理事には、米国の政府委員も務めている出版社経営の女性、エスター・ダイソン氏や女子大の学長であるリンダ・ウイルソン氏などがメンバーに入っている。ふたりとも、もともとインターネットコミュニティの人間ではない。
こうした不透明な選出経緯に加え、「非公開の会議が多く、決定プロセスが不透明」「商務省の下請け機関になってしまっているのではないか」といった批判も相次いだ。「ICANNの幹部はビジネスクラスで出張に行っている」という非難まであった。
こうした批判に対応するため、ICANNは2000年10月、一般インターネット利用者(At Large Member)から理事を選出するという初めての選挙を実施した。ICANNの理事会は事務局長1人と設立当初からの暫定理事9人、サポーティング組織からの理事9人の計19人で構成されており、暫定理事の一部を公選で選ぶ理事5人と入れ替えるというものだ。
この選挙は立候補から投票まで、すべてインターネット上で行われるという人類史上初の電子投票となった。インターネットユーザーであれば誰でも投票できるとしたこの理事選挙には、全世界から15万以上が登録を行った。
投票が行われた結果、アジア太平洋地域で富士通ワシントン駐在員事務所長だった加藤幹之氏が当選するなど、地域別に5人の公選理事が選ばれた。だがこの公選制について、直後からたいへんな議論が巻き起こる。「果たして公平な選挙が行われたのか」という批判も多かった。一般ユーザーの選挙登録者数は北米地域が1万人あまりだったのに対し、アジア太平洋地域は3万8000人以上に達していた。アジア諸国が自国の権益を拡大するため、組織的に登録を行ったのではないかと批判された。こうした“不正選挙”への批判に加え、選挙費用の拡大や、投票者、候補者の選定基準などに対しても疑問が呈された。
この結果、ICANNは理事公選制をわずか1度限りとして中止することになってしまう。そして2002年3月。ガーナで開かれたICANN会議の席上、スチュワート・リン事務総長は衝撃的な発言を行う。公選理事の代わりに、各国政府に理事の任命権を与えることを提案したのである。
ボランタリーで自由な仲間たちが支えるというインターネットの幻想が、打ち砕かれた瞬間だった。かつて「技術者サークル」として生まれたインターネットは、90年代末以降、急速にビジネスの手段へと存在意義を変えていく。このパラダイムの転換の中で、インターネットのガバナンスも方向性を変えざるを得ない状況になったとも言えるだろう。つまり技術者のサークルから、ビジネスの利害調整の場へと移らざるを得なくなってきたのだ。公共の利益をいったい誰に代弁させるのか。好意的に解釈すれば、リン事務総長の提案は、その難問に直面し、考え抜いた挙げ句の苦渋の決断だったようにも見える。
もちろん、この提案はインターネット世界から凄まじい批判を浴びた。だがICANN内部では「改革はもちろん必要だが、理事公選制では実現できない」という意見が大勢を占めた。ICANN理事会はインターネットコミュニティの人々が幅広く参加できる委員会やフォーラムの設置を提案し、そして同年10月、中国・上海で開かれた理事会で理事公選制の廃止は正式に可決されたのである。
しかしICANNにとっての茨の道は、これで終わらなかった。次に批判の狼煙を上げたのは、中国やブラジルなどインターネット世界の“後発組”たちである。
2003年12月、世界情報社会サミット(WSIS)がジュネーブで開かれた。この会議で、中国やブラジルの代表が「インターネットのガバナンスをICANNから国際電気通信連合(ITU)に移せ」という議案を突如として提出したのである。ICANNはあくまで米商務省と契約した米国内の民間団体であり、国際機関ではない。インターネットは1国が管理すべきではなく、国際管理に移すべきだ――というのがその主張だった。
こうした提案が出てきた背景には、IPアドレス割り当てに関する不公平感が、第三世界を中心に広がっていることがある。IPアドレスは米国に過剰に割り当てられており、今後、途上国が利用できるアドレスの数はかなり制限されることになるというのだ。また中国などからは、2バイトドメインの採用に関する不満もある。さらには、ドメイン管理を米政府が行っていることに対する直接的な危機感もある。イラクのようにテロを支援していると米国から見なされた途端、ドメインをDNSから削除されてしまうのではないかというのだ。
インターネットのガバナンス問題に取り組んでいるアジアネットワーク研究所の会津泉氏は、「イラク戦争も影を落としている」と話す。「各国の反対を無視し、イラク戦争を強行した米国への反発が背景にある。また国連にとっても、イラク戦争で何の抑止力も発揮できず、無力だったという反省がある。冷戦後の枠組みの中で米国に一方的に与せず、しかし米国を無視せずにやっていかなければ国際社会はうまくいかない。インターネットガバナンス問題でも、国連のそうした意識が影響を与えている」
一方で、この提案の背後には、ITUの暗躍もあったようだ。WSISの主催者だったITUは従来、電話会社の業界団体的な色彩が強かった。かつてAT&TやNTTなど各国の電話会社は、インターネットの普及を何とか阻もうとしてインターネットコミュニティと激しく対立した経緯がある。
会津氏は「ITUは昔、通信がインターネットへと移行した際に、自分たちの権威が失われたという被害者意識を持っている」と解説する。それだけに、今回の中国やブラジルの提案は、ITUにとっては千載一遇のチャンスとなる可能性がある。ITUにはITU-Tという標準化部門があるが、これに加えてITU-Iというインターネット部門を新設し、ドメイン管理などを取り込もうという動きさえ出てきているという。
だがインターネットコミュニティには、嫌悪感とさえ言えるITUへの反発がある。前出の丸山氏は「ITUが90年代初めに『専用線の第三者使用の禁止』という勧告を出し、インターネット普及を妨害した。これによってインターネットはたいへんな苦労をする結果となった」と話す。
こうした過去の記憶だけではない。丸山氏は言う。「ITUは関係者の利害調整が主であり、どのような技術を作り、インターネットをどのような方向に進めていくべきかという議論には馴染まない。そうした機関にインターネットのガバナンスを任せていいのかという疑問がある」
そしてICANNをめぐる議論が拡大していくのと合わせるかのように、インターネット・ガバナンスという言葉の定義自体も少しずつ変わり始めている。これまでインターネットガバナンスという言葉は、主にIPアドレスの割り当てとドメイン管理を指して使われていた。だがここ数年、コンピュータウイルスやスパム、サイバーテロなどの問題が国境を越えた国際的な課題となり、ガバナンスの範疇にこれらの問題を含めるようになりつつあるのだ。
会津氏はこう話す。「ガバナンスというテーマではまだ徹底的な議論は行われておらず、ガバナンスの定義自体まだ明確にはなっていない。インターネットの当事者たちが自発的にマネジメントするのがガバナンスだという人がいれば、政府が参加するのがガバナンスだと主張する人もいる。スパムやサイバーテロを含めるかどうかも、まだ議論の途上だ」
ITUとインターネットコミュニティの積年の対立、そして第三世界と欧米のインターネット空間割り当てをめぐる対立――。さまざまな対立構造が乱れ、定義までもが混乱するインターネット・ガバナンス。この状況を収拾するため、ITUの上部機関である国連は、ひとつの決定を行った。インターネット・ガバナンスについて定義し、具体的な内容を検討するワーキンググループをアナン国連事務総長の下に設置するというのである。ワーキンググループの検討内容は、2005年11月にチュニジアで開かれるWSIS第2フェーズで提案されるのだという。
今後、国連ワーキンググループがどのような提案を行うのか。その内容は、インターネットの将来を大きく変える可能性もはらんでいるといえるだろう。
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